戦国武将ランキングベスト20 感動の胸アツ武将1位に選ばれたのは?博士ちゃん
23年7月22日「博士ちゃん」は博士ちゃん14人が選んだ忠義・友情・夫婦愛など感動の胸アツエピソードを持つ戦国武将ランキングベスト20を発表という事で一覧でまとめてご紹介。
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胸アツ戦国武将ランキング
生涯無敗で家臣にも愛された戦国最強武将の一人。
妻の誾千代と合わせて夫婦最強とエピソードに事欠かない人物で大河ドラマ主人公の招致活動も盛んにおこなわれているとか。
特に胸アツなエピソードは朝鮮出兵で窮地に陥った加藤清正救出劇。
7万の軍勢に城を取り囲まれて絶体絶命に陥った清正を救おうと少ない人数で果敢に突撃した宗茂は見事清正を救い出す事に成功。
さらに関ヶ原の戦いでは敗軍側で領地を失う処遇を受けて浪人になってしまうものの、家臣団をそれでも宗茂を見捨てずに忠義を誓い、
そこから復活を遂げて2代将軍徳川秀忠に認められる形で大名に返り咲き。
博士ちゃんの多くが投票して圧倒的な得票数で1位に。
秀吉に仕えた白頭巾の軍略家と知られる智将。
石田三成との親交が厚く、
吉継が流行り病にかかってしまった際にはお茶会で吉継が口を付けた後の茶を誰しもが躊躇する中で、三成は平然と茶を飲み干して見せたという友情エピソード。
この友情に報いるべく、関ヶ原の戦いでは負けると覚悟していながらも三成のいる西軍について最期まで戦う事に。
徳川軍を二度破る武功を挙げた家康の天敵。
大坂の陣でも活躍を見せたものの、最期は神社で休んでいる所を徳川の兵に急襲されて首を取らせて散っていくというエピソード。
九州最強と言われた島津家の武将。
関ヶ原の戦では敗軍となる西方についた島津軍でしたがわずかに残った手勢300人程度で数万の大軍勢に囲まれる絶体絶命のピンチ。
そこで島津軍が繰り出したのが戦国時代にたった一度だけしか行われなかったとされる決死の退避作戦、通称・島津の退き口。
大挙として迫ってくる追撃の軍勢に対して小勢の部隊を繰り返し突撃させて時間を稼ぐ「捨て奸(がまり)」の間に義弘を出来るだけ遠くへ逃がすというトカゲの尻尾切りにしては危険すぎる壮絶な作戦でしたが、
島津軍の大将として信頼を置かれていた義弘のために命を投げ打つ多くの部下に支えられて作戦は見事成功。
秀吉に仕えた戦国最強軍師の一人。
同じく秀吉に仕えた黒田官兵衛と共に二兵衛と呼ばれて重用された二人でしたが、
ある時、信長が官兵衛の裏切りを疑って半兵衛の息子を処刑するようにと非情な命が降ることに。
実際は官兵衛は敵方に捕らえられて幽閉されていただけで裏切ってはいなかったところ、
これを察知した半兵衛は処刑したそぶりを見せて秘密裏に官兵衛の息子を匿うという行動に。
後に官兵衛が救出されて裏切りの疑いが晴れた際には官兵衛親子は無事に再会を果たせたというエピソード。
この時点で既に半兵衛は病によって陣中で没しており、秀吉から半兵衛の後釜として迎えられた官兵衛はいよいよその頭角を現していくという胸アツな展開も。
スポンサーリンク命を懸けて仲間の為に走った戦国版走れメロス。
舞台は織田家 vs 武田家の長篠の合戦。
長篠城では奥平軍500人が武田の猛攻に遭って信長&家康の援軍を待つしかない状況に。
そんな窮地に足軽だった強右衛門は危険な伝令役として名乗りを上げて城を出る事に。
周囲を武田軍に囲まれる中で65km先の本陣への伝令を務めることになった強右衛門は夜中に城を出発すると昼過ぎには本陣に到着する快足ぶりを見せ、
援軍要請が完了すると強右衛門は一刻も早く長篠城へそれを伝えようと休憩も取らずに踵を返すことに。
こうして往復130kmの道のりをわずか1日で走り切った強右衛門でしたが長篠城到着寸前で武田軍に捕らえられるという最悪の事態に。
「援軍は来ないので城を明け渡したほうが良い」と嘘の伝令を城に伝えれば命は助けた上に褒美も出すと言われた強右衛門でしが、
最期は堂々と「援軍は来る」と伝令を伝え長篠城で待つ仲間たちへの想いを胸に武田軍に処刑されて果て、
結果、奥平軍は奮闘して援軍到着まで城を守り切り、強右衛門の命を懸けた伝令に応える事に。
この話に感動した信長は足軽の強右衛門のためにお墓を建てて後世にもこの話が残るようにと取り計らったというエピソード。
東北の雄として知られる政宗は数々の胸アツエピソードで彩られていて、
小田原城を攻める豊臣秀吉から招集がかかった際には、
小田原城を治める北条氏との友好関係があって参戦したくなかった政宗はのらりくらりと時間稼ぎをして大遅刻で参上。
そこで政宗は切腹をするときの装いである白装束で秀吉のもとに現れて土下座をして秀吉の許しを請たというエピソード。
映画「のぼうの城」で描かれた忍城の戦いで分かる領民から愛された武将。
石田三成の軍勢2万に対して農民を含めた3000人の手勢で迎え撃った長親は水攻めにあって絶体絶命のピンチに陥りますが、
そこで奮起したのが長親を慕う農民たち。
一説によると農民たちが水攻めに使われた堤防を破壊した事で三成軍の足が止まって城は落ちなかったというエピソード。
戦国最強の一角を担う軍神。
終生のライバルとして知られる武田信玄との間には敵同士という間柄を超えて友情のようなものを育んでいて「敵に塩を送る」の言葉の語源になったエピソードが有名。
武田信玄が治める甲斐は内陸国で塩がとれず、周辺国から塩を止められた際には、
上杉謙信は「戦で勝負する事こそ本分なのでうちからどんどん塩を買えばよい。商人にも高値では売らないように厳命しておく。」
と言ってライバルの不本意な敗北は承知しなかったというお話。
妻のガラシャとの愛情溢れるエピソードが残されていて、
秀吉が出した禁教令でキリスト教が厳しく弾圧される時代にあってキリスト教徒のガラシャに対して改宗するように迫ったとされる忠興でしたが、
ガラシャが亡くなった際にはキリスト教式の葬式を挙げて弔ったという逸話。
スポンサーリンク豊臣政権の陰の功労者で秀吉との「三献の茶」エピソードが有名。
信長の下で頭角を現した秀吉が趣味の狩りに興じていた所、
休憩に立ち寄った寺でたまたまお茶を用意する事になったのがお寺に修行に来ていた当時15歳の石田三成。
そこで三成は1杯目にゆるいお茶を出して喉が渇いていた秀吉のために温度調整し、
おかわりを頼んだ秀吉の為に2杯目は飲み干すのにちょうど良い量に調整して温かいお茶を出し、
3杯目には熱いお茶を出してゆっくりと本来の茶の味を楽しめるようにと趣向を凝らして秀吉を満足させることに成功。
これで完全に気に入られた三成は秀吉の家臣に加えられる事に。
備中高松城の城主だった宗治は城を水攻めにされた際に城兵5000人の助命と主君の毛利家のために自ら切腹して自害。
家臣を想うその散り際には城を囲んでいた秀吉さえも涙したとか。
主君である上杉家の繁栄に生涯を尽くし政治分野で大活躍。
豊臣秀吉が亡くなり徳川家康が全国に勢力拡大を図っている1600年。
兼続の主君だった上杉景勝に謀反の疑いありと家康に難癖をつけられるという事件が発生。
そこで返事に窮していた景勝に変わって兼続は家康に対して完璧すぎる申し開き、通称・直江状を叩きつける事に。
家康のいちゃもんに対して理路整然と全て論破した形で家康の付けた8箇条の注文に対して16箇条と倍返しで応えた直江状はひとえに主君を守りたいという直江兼続の想いの結晶。
皮肉にもこの直江状に激怒した家康が関ヶ原の戦いを決心する事になったという説も。
最強の城と呼び声の高い熊本城を築城した名将。
朝鮮出兵の際に兵糧攻めにあって家臣もろとも死にかけた苦い経験を活かして非常食の工夫を多く施して部下を守ろうと知恵を絞った結果が熊本城に表れる事に。
貧しい地方武士の出自ながら信長・秀吉・家康と三英傑に仕え土佐24万石の城主に上りつめた名将。
その成功の裏には夫を陰で支えた妻・千代の存在あり。
当時、信長の下級家臣で貧しい生活をしていた一豊は大イベントの京都御馬揃えに参加する事となり、
満足に馬を揃えられずに困っていると、妻の千代からは嫁ぐ際に持ってきていた持参金で馬を買ってと申し出。
持参金は離縁した際に元の家に戻るためのもの、妻が自由に使える唯一のお金という意味合いのあるお金でしたが、
「一豊様と離縁する事は決してありませんから。」と言ってお金を託したというエピソード。
そしてこの時に勝った馬が信長の目に留まった事で出世の道を進んでいく事に。
他にも新しい城を築く仕事を任された際に、お金が無くて職人たちにまかない飯を出せないで困っていると、
お金を作るために髪を売って資金捻出をしたという千代の助けが。
そんな夫婦仲もあって一豊は生涯側室を持たずに正室の千代のみを愛し続けたという事も。
スポンサーリンク文武両道を地で行く稀有な人物で信長・秀吉からその才能を高く買われていた武将。
大大名に出世するまでは金銭面で苦労が絶えず、
そんな中でも武功を立てた部下に対してはせめて何か褒美を与えたいとお風呂を焚いてあげたというエピソード。
大河ドラマ「おんな城主直虎」でも描かれた武将で井伊家の跡継ぎが次々と亡くなったことで戦国時代では異例中の異例ながら女性として家督を継ぐことに。
浜松にある龍潭寺は直虎ゆかりの地となっていて、
直虎の許嫁の父親が謀反人となってしまったために二人の仲は破談になり、許嫁は他の女性と結ばれる事に。
ところが龍潭寺にある直虎のお墓は許嫁夫婦のお墓の隣に建っていて、あの世では許嫁の隣で静かに眠りたいという想いが込められているとか。
時として暴君のような捉え方もされる信長にはその反面、優しい一面のギャップも魅力的。
戦に向かう道中で農民が居眠りをしているのを目にした信長の部下が無礼打ちにすべきと進言したのに対して、
「農民がいびきをかいて眠れる世の中をつくりたい。」と言って不問にしたというエピソード。
事実、兵農分離を進めて兵の専業化を行うという政策も実行。
戦国最強武将の一人に数えられ生涯戦績は49勝3敗20分という数字も。
稀代の戦略家で戦上手のイメージが強い信玄ですが、
内政に関しては当主による独裁が多かった時代にあって家臣団と話し合う合議制を導入していたり、
法律作りに際しても自分がルールを破ったら自分も罰せられる文言を謳ったりと部下との距離感を大事にした武将。
戦国最弱のじゃない方の”おだ”。
何度も城を落とされるも、その度に諦めずに城を奪還すること8回と珍しい戦歴の持ち主で、
負けても負けても立ち上がる戦国の不死鳥ぶり。
その裏には家臣団や領民に大変慕われていたという人望の厚さがあったとか。
以上、博士ちゃんより胸アツエピソード持ちの戦国武将ランキングでした。