お花見でどんちゃん騒ぎするのはなぜ?2026年版の答えは?チコちゃん
26年3月27日放送の「チコちゃんに叱られる 拡大版SP」の問題『なぜお花見でどんちゃんするようになった?』の答えなどまとめてご紹介。2回目登場の疑問の2026年版の答えは?
スポンサーリンクゲスト出演者
【ゲスト】水野美紀、北村一輝、シソンヌ長谷川
【VTRゲスト】なし
なぜお花見でどんちゃんするようになった?
1問目の出題は、
なんでお花見でどんちゃんするようになったの?
チコちゃんの答えは、
豊臣秀吉のおかげ
解説は江戸川大学の斗鬼正一名誉教授。
そもそもお花見という行事が始まったのは奈良時代とされていて、当時は宴会ではなく貴族が花を見ながら歌を詠むというもので、しかも見ていたのは桜ではなく梅。
梅は古くから中国で親しまれていた花で当時の貴族たちは先進国だった中国の文化を積極的に取り入れていたために特に梅の花が好まれたという時代背景も。その証拠に日本最古の和歌集である万葉集では桜の花を詠んだ歌が約40首なのに対して梅の歌は100首以上。
ところが894年に遣唐使が廃止された影響もあって日本独自の文化を生み出す国風文化が盛んになると、かな文字の発達、寝殿造りといった建築様式、十二ひとえなどが誕生し、そんな中で日本に古くからあった桜が改めて注目される事に。
その結果、平安時代の古今和歌集では桜を詠んだ歌は約70首、梅の歌は約20首と万葉集からは人気が逆転。つまりお花見の花といえば桜という時代に。
スポンサーリンクこの頃は歌を詠みつつお酒をたしなむといった事も行われていたものの、こういった行事はあくまで貴族や武士だけが行うもので、庶民が楽しむお花見が広まったのは豊臣秀吉の影響が大きいと斗鬼先生。
1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉は自分の権威を天下にしらしめるため、1594年4月に桜の名所として知られる奈良・吉野を舞台に5日間にわたる盛大な宴会イベント「吉野の花見」の開催を宣言。参加者は徳川家康、前田利家、伊達政宗など名だたる武将たちを含む総勢5000人。
ところがいざ花見が始まってみると最初の3日間は天気に恵まれず雨模様となってしまったため、これにしびれを切らした秀吉は吉野の僧侶たちを集めて「雨がやまぬなら山に火をかけて下山する」と言い出す無茶振りを発動。これに慌てた僧侶たちは夜通し祈願を行って、その甲斐もあってか翌日には雨がやんで遂に宴会がスタート。
宴会では歌の会、茶の会、能の会など様々な催しが行われて参加者たちは大豪遊したようですが、そんなイベントで最も盛り上がったとされているのが戦国武将たちによるコスプレ大会。
秀吉は自分のみならず武将たちにもあえて庶民の格好をさせて楽しんでいたようですが、洒落者として知られる伊達政宗は修行僧の格好で茶屋を訪れた際に店員姿の秀吉に「客の僧よ。お立ち寄りください。」と声を掛けられると「足が疲れた。茶より酒をいただきたい。」と返す軽妙なミニコントを披露して周囲は爆笑の渦に。
当然ながら花見の主役たる吉野の千本桜の絶景も参加者たちに大好評で、秀吉は桜を見ながら歌を詠むだけではなく、そこで飲み食いしながら騒ぐという新たな楽しみ方を見出し、これが現代の花見文化の元祖の一つに。
スポンサーリンクまた、この一大イベントの成功に気を良くした秀吉は1597年、花の醍醐と呼ばれるほどに桜が有名な京都・醍醐寺で見た桜の美しさを気に入って翌年の1598年に再び大規模な花見を開催。
このイベントは前回とはがらっと趣向を変えて招待されたのは約1300人の女性たち。これは自分の妻や全国の大名たちの妻たちを労うという目的だったようで秀吉は大名の妻たちに2度のお色直しをするように命じて、その衣装代は現在の価値で40億円以上の費用が掛かったといわれているとか。
この吉野と醍醐の2つの花見で開かれた宴会は身分の違う者同士が集まって一緒に楽しむいわゆる無礼講で行われたわけですが、これが上下関係が厳しい庶民には好評で、のちに庶民へと花見文化が広がるきっかけに。
江戸時代になると飛鳥山、御殿山、隅田川など庶民も訪れる事が出来る桜の名所が整備された事もあってより多くの花見客を呼ぶ事となり、明治時代になるとお花見で酔っ払って羽目を外すといったどんちゃん騒ぎが毎年恒例になって現在に至る事に。
という事で1問目は以上。
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