世界陸上で起きた大事件や酷い失敗の数々。世間を騒がせた珍事件・ハプニング集を総まとめ
陸上競技の最高峰の大会である「世界陸上 (正式名称:世界陸上競技選手権大会、IAAF World Championships)」は世界各国のアスリートたちが参加してその記録を競う頂上対決の場。これだけの大規模な国際大会ともなると酷いアクシデントが起きて世間を賑わせてしまう事もしばしば。というわけで世界陸上の舞台で実際に起こってしまった酷い失敗や衝撃的な出来事を珍事件やハプニングなども含めながら総まとめしてみました。
※19年3月13日にTBS系列で放送された「世界陸上ドーハ9月開幕!」の内容から加筆しながらご紹介します。
スポンサーリンク目次
ハンマー投げでハイテンション
1999年 スペイン・セビリア大会。
男子ハンマー投げに出場したドイツのカルステン・コブス (Karsten Kobs)。
それまで国際大会であまりパッとしない記録が続いていましたがこの大会では80m24cmの記録を叩き出して見事に金メダル獲得。自己ベストはこの世界陸上セビリア大会の少し前に開催された国内大会で出した82m78cmではあるものの、国際大会で、さらに世界陸上の舞台で出た会心の記録に喜びが大爆発。
サークルにキスをした後は飛び跳ねるようにして走り出したかと思ったら80mラインに引かれたテープを持ち上げて万歳。
それでも興奮は冷めやらず、3000m障害の水濠(すいごう)に向い豪快にダイブ。
ハンマー投げの競技は投てき後に盛大に叫ぶのがよくある光景なのでハイテンションが付き物ではありますが、それが度を過ぎちゃったという例ですね。
トイレに立ち寄って金メダル
2015年中国・北京大会。
男子50km競歩で先頭をひた走るスロバキアのマテイ・トス (マテイ・トート、Matej Tóth)。
優勝候補に挙がっていたマテイ・トスでしたが、レース後半に来て係員に対して指を指したかと思うと、スッとコースを外れるという行動に出ます。
そしてコースを外れた途端に競歩では御法度とも言える“小走り”である小屋に駆け込みます。この時点で接地の後に膝を伸ばしてしまう“ベント・ニー”と両方の足が地面から離れる“ロス・オブ・コンタクト”のルール違反ではありますが、彼にはどうしてもそうする理由があったんですね(※実際はコース外だったのでこれらの反則の対象外)。その理由が、
トイレ休憩。
30キロ付近にあったコース脇のトイレに駆け込んだマテイ・トスは20秒間のトイレ休憩の後にレースに復帰。復帰直後はズボンの紐を結びながら歩き、そのまま2位と1分45秒の差をつけて金メダル獲得。
「タイムロスはしたものの、トイレ休憩のおかげでスッキリして心拍も整いました。」とレース後にはコメントを残しています。
トイレ休憩で大失敗というエピソードかと思いきや、トイレ休憩に行ってもなお優勝しちゃったという豪快なお話でした。
フライングで全力疾走
1997年 ギリシャ・アテネ大会。
女子100mに出場したジャマイカのマリーン・オッティ (Merlene Ottey)。
1983年の世界陸上第1回フィンランド・ヘルシンキ大会から1995年のスウェーデン・イェーテボリ大会まで過去全ての大会に出場してきたレジェンドの一人で競技実績も大ベテランの域。このアテネ大会では37歳という年齢でした。
100m競技においてそれまで銀メダル2個、銅メダル2個の成績で“シルバーコレクター”や“ブロンズ女王”という有り難くない異名までいただく事になった彼女ですが、アテネ大会では酷い失敗が彼女を襲います。
スタート直後に他の選手(バハマ代表のサバセダ・フィンズ)のフライングの判定でスターターがフライングの号砲を通知しますが、マリーン・オッティはそれに気付かず50m~60m付近まで全力疾走。
歩いてスタート位置まで戻りますが、体力の消耗は誰の目からも明らかでした。
それでも救済措置などは取られずに非情の再スタート。
再レースでは80m付近でレースを諦めたマリーン・オッティは7着に惨敗。そして無情にもこのレースで銅メダルを獲得したのはフライングを犯したサバセダ・フィンズだったという皮肉。
コチラが視聴動画。
ちなみに優勝したマリオン・ジョーンズは後にドーピングスキャンダルによって2000年9月以降の全ての陸上記録が抹消されるという処置にもあっていますね。※この記録は1997年時点のものなので有効。
スポンサーリンクまた、この年のマリーン・オッティはシーズン当初からあまり調子が上がらなかったため、世界陸上の100mに懸けて集中的にトレーニングを行っており、研ぎ澄まされ過ぎた集中力からフライングの号砲を聞き逃すという凡ミスが起こったわけですね。
それでもこの後に行われた同大会の女子200mでは銅メダルを獲得しており、ブロンズ女王の本領発揮といった所でしょうか。
その後はジャマイカの陸上連盟とケンカ別れのような状態で、当時師事していたコーチの国籍であるスロベニアに2002年に国籍変更を行ってキャリアを続け、2007年の世界陸上 大阪大会には47歳という年齢で出場。
その後も52歳という年齢でリレーチームの一員として2012年ヨーロッパ選手権に出場。その頃には“トラックの女王”という呼び名もあったそうです。
結局、オリンピック、世界陸上を通して100mでは一度も金メダルを獲得するには至らず、アテネ大会のフライング聞き逃しのミスは悪夢のような出来事でした。
ドラモンドの悲劇
2003年 フランス・パリ大会。
男子100mの2次予選で世間を賑わせた大事件が発生。
実は2003年からフライングに関するルール改正が行われており、1回目のフライングが誰であっても、2回目にフライングをした選手は即失格となる厳しいルールに変更されていたという背景もあった事でこの日2回目のフライング判定にナーバスになる選手たち。
当時はあえてフライングを犯す事で有力選手の集中力を削ぐという心理戦を仕掛ける選手の存在が問題視されていたという事もあって、これはやむを得ない処置とも。
そんな中、フライングで失格判定を受けたのはアメリカのジョン・ドラモンド (Jon Drummond)。
この判定に納得が行かないジョン・ドラモンドはカメラやマイクが近寄ってくる中、“I did not move!=俺は動いていない!”と繰り返し主張。
コチラが視聴動画。
係員に退場を促されても断固として拒否して遂にはトラック上に寝そべって猛抗議。
実はこの時隣のレーンのアサファ・パウエルもフライング判定になっているのですが、ジョン・ドラモンドの反応時間(リアクションタイム)を見るとそのパウエルよりも速いタイミングで動いているというデータも。
実はスターティングブロックに置いた足のグラつきを機械が検知したためにこういった判定になったと後に言われていますが、この時点では泣こうが喚こうがどうしようもないというのが正直な所。
途中でウェアを半分脱いで遂に去るのか?と思わせといてフェイントをかけてもう一度トラックに戻って来て、他の選手と握手を交わしたり、観客を煽って再レースを強行しようとしたりと悪あがきが多彩。
結局彼は涙を堪えながら会場を後にして、このレースは後回しにされますが、動画にも収められているように再レースの際にはジョン・ドラモンドに同情した観客から大ブーイングが巻き起こって競技がスムーズに行えなくなるというトラブルも発生。
流石、マナーが悪いと言われるフランスのお客さんの本領発揮ですねw
とはいえ、これがきっかけで引退する事となったジョン・ドラモンドは後にタイソン・ゲイのコーチなども経験しますが、2014年に指導する選手に禁止薬物を与えるという違反行為が発覚して8年間の資格停止処分を受ける事に。この時も“I did not move!”と言ったかどうかは分かっていませんが。
ちなみに2022年の12月16日に資格停止処分が解かれますが、トラック界に戻ってくるのでしょうか?
スポンサーリンク大会マスコットが大暴れ
2009年 ドイツ・ベルリン大会。
この大会ではジャマイカのウサイン・ボルトが100mで9.58の世界記録で金メダル。さらに200mでも19.19の世界記録で金メダルと金字塔を打ち立てた大会でしたが、そんなベルリン大会では大会マスコットのベルリーノが大暴れ。
とにかくトラックのあらゆる所に顔を出して、男子10000mのレース中にはトラックを遠巻きに走るという暴挙も。
さらに女子やり投で金メダルを獲得した地元ドイツのクリスティーナ・オーバークフォルにメダル獲得後に抱き着いてそのまま押し倒すという大胆な犯行にも及びますw
そんなベルリーノでしたが、男子円盤投で金メダルを獲得した地元ドイツのロベルト・ハルティングにはタジタジ。
身長:201cm、体重:130kgというパワフルなロベルト・ハルティングは金メダル獲得が決まると撮影機材のマイクを奪って投げ捨て、さらには着ていたウェアを引き裂いてポーズ (優勝した際のお決まりのポーズだったとか)。
そしてベルリーノへ向かっていき、頭突きを食らわしたかと思えば、一気に抱え上げてお客さんにアピール。ハイタッチを交わして喜びを分かち合うという行動に。既に紹介したカルステン・コブスのフォロワーだったのかもしれない程の興奮ぶりですよね。同じドイツ人ですしw
コチラが視聴動画。
その他のベルリーノの暴れっぷりはコチラの動画で。オーバークフォルに抱き着いてそのまま押し倒すという大胆な犯行にも及びます。映像もバッチリ収録されていますね。
連続で世界記録
1995年 スウェーデン・イエテボリ(イェーテボリ)大会
男子三段跳び決勝の舞台で世界は衝撃の記録を目撃する事に。
決勝1回目の試技でイギリスのジョナサン・エドワーズが叩き出した記録は何と18m16という大ジャンプ。
これは人類初となる18m越えのジャンプで、もちろん世界記録更新の瞬間でした。
着地した直後には飛び跳ねて快挙達成を喜ぶジョナサン・エドワーズ。
この時点で金メダル獲得は約束されたも同然ですが、2回目の試技ではさらにとんでもない光景を目の当たりにする事に。
2回目のジャンプでジョナサン・エドワーズが記録したのはなんと18m29。
着地した瞬間に世界記録更新を確信したのか両手を挙げて喜びの表情を見せます。
たった2回のジャンプで人類初の18m越えジャンプを連発して見せ、世界記録更新を2連発させたジョナサン・エドワーズですが、この時のジャンプの内訳(フェーズ)を見てみるとそれぞれの跳躍距離は、
6m05 5m22 7m02
スポンサーリンクこの記録を出した翌年の1996年1月に計測されたジョナサン・エドワーズの100m走のタイムは10秒48をマークしており、このスピードを生かして、高くジャンプするというよりはより水平方向に跳躍していくスタイルが特徴。
その証拠に、振り切り直前のスピードは1991年の世界陸上 東京大会でカール・ルイスが走り幅跳びで記録した数値よりも速かったそう。
実はこの18m越えの記録が生まれたのは1995年8月7日の事でしたが、7月にスペインのサラマンカで開催された大会で17m98の記録で世界記録更新を果たしていたというのも驚き。
さらに付け加えると6月25日にフランスで開催されたヨーロッパカップで2.4mの追い風参考記録ながらも18m43という途方もない記録も叩き出していたジョナサン・エドワーズ。
この時のジャンプの内訳(フェーズ)は、
6m50m 5m60m 6m33となっていますね。
コチラがその時の動画。
このように世界記録に関しても三段跳びのようにポンポンとリズムに乗って連続で更新していったわけですね。
ウサイン・ボルトのアクシデント
2015年 中国・北京大会
この大会でジャマイカのウサイン・ボルトは2大会連続2冠を達成。
しかし、男子200m決勝のレース直後にトラックを歩いて観客の声援に応えていた所で最悪のアクシデントが発生。
ウサイン・ボルトを撮影するためにセグウェイに乗ってカメラを構えていたカメラマンが移動カメラ用のレールに引っかかって大転倒。
そのままボルトに綺麗な足払いを食らわせる格好でなぎ倒すという衝撃的な光景が世界に中継されてしまいました。
倒れたボルトは軽快に一回転してすぐに立ち上がり、自身に問題が無い事をすぐにアピール。
さらに酷いミスを犯してしまったカメラマンに対しても親指を立てたサムズアップと握手で神対応を見せたボルト。
この事故の影響でふくらはぎの部分を少し擦りむいて軽く出血していたボルトでしたが、そのまま各国のインタビューエリアで取材対応もこなしています。
その後にカメラマンからはお詫びとして天使の翼がデザインされている赤いブレスレットを贈るという事もありました。
天使がボルトを守ってくれるようにという願いを込めたそうですが、その前にカメラマンから身を守るブレスレットの方が良かったかもしれませんね。
スポンサーリンクこの時も「自分は大丈夫だから。」と優しい言葉をボルトからかけられたそうで、流石世界のスーパースターといった所でしょうか。記者会見の場でも自分よりもカメラマンの体の方を心配するという気遣いもあったそうですしね。※カメラマンも特に何事も無かったとの事。
このアクシデント後には「ボルトを倒せるのはカメラマンだけ。」というネット上のジョークも多少広まったようですが、ブレスレットの効果もあってか、その後に行われた男子4 x 100リレーでアンカーを務めたボルトはぶっちぎりのスピードで金メダル獲得に貢献。
これで史上初となる2大会連続での3冠達成となりました。
障害でコース間違い
2017年 イギリス・ロンドン大会
女子3000m障害決勝では酷いミスが発生。
このレースでは水濠が内側のトラックに設定されており少しトリッキーなレイアウト。
予選の段階で既に一度走っているコースではありましたが何が起こるのか分からないのがスポーツの現場。
というわけで見事にコースを間違えて慌てて引き返す選手が一人。
ケニアのベアトリス・チェプコエチ (Beatrice Chepkoech)がその人でした。
動画をよく見てみると、実は間違えそうになっている選手が多数いる事が分かりますよね?
慌てて進路を内側に変えた事でぶつかったり、つまずいたりしてコケそうになる選手も発生していますが、ベアトリス・チェプコエチは集団の前方を走っていたのでコース間違いに気付けなかったようですね。
危うく一人旅になる所でしたが、すぐに間違いに気付いて引き返します。
それでも集団からは大きく遅れる事に。
最終的には4位まで巻き返しますがメダル獲得には一歩及ばず。
単純なミスが招いた結果でしたが、その後2018年にベアトリス・チェプコエチは8分44秒32のタイムで世界新記録を樹立。
コチラはすさまじいスピードを発揮して2位以下を大きく突き放して一人旅でゴール。
女子3000m障害にはどうしても越えられない8分50秒の壁が存在していたのですが、この時のベアトリス・チェプコエチの記録はさらにその上を行き、8分45秒の壁すらも突破してしまうという圧倒的なタイムでした。
スポンサーリンク世界新記録で捻挫
2009年 ドイツ・ベルリン大会
女子ハンマー投に出場したポーランドのアニタ・ヴォダルチク (Anita Włodarczyk)は喜びの余り痛い代償を払う事に。
2009年は彼女にとって好調の年で自己記録を次々に更新して、遂にはポーランド国内記録も塗り替えて乗りに乗った状態でベルリン大会を迎えます。
そして決勝2投目で77m96の世界新記録を樹立して快挙達成。
喜びの余りに観客席に向かって飛び跳ねながら走り出した所で彼女に悲劇が襲います。
トラック上で専門外の三段跳びを披露してしまったアニタ・ヴォダルチクは左足首を捻挫。
この怪我の影響で続く投てきは全てパスして他の選手の結果待ちとなりますが、その間もテーピングを施した左足首を氷嚢で冷やしつつの状態。
流石に世界新記録を越える選手は現れずに金メダル獲得。最後はただ後ろに投げるだけでウィニングスロー。
その後は国旗を掲げてトラックを走るアニタ・ヴォダルチクでしたが、結局この怪我が元でこのシーズンは途中終了する事に。
それでも2010年4月の大会で復帰すると、2012年のロンドン五輪金メダル、2015年世界陸上北京大会金メダル、2016年リオデジャネイロ五輪金メダル、2017年世界陸上ロンドン大会金メダルとトップ選手として君臨。
コチラがリオデジャネイロ五輪で当時の世界記録82m29を投げて金メダルを獲得した時の動画。
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現在の世界記録である82m98は彼女が樹立した偉大な記録で、未だに80mを越える投てきをした事があるのは女子ではアニタ・ヴォダルチクのみという状態。しかもアニタ・ヴォダルチクは80m越えの投てきを15回も達成しているという驚きの記録も。
コチラが82m98を記録した時の動画。
たった一人の予選
2017年 イギリス・ロンドン大会
男子200m予選でスタートを待つ選手たち・・・のハズがそこには驚くべき光景が。
そこに立っていたのはたった一人、ボツワナ代表のアイザック・マクワラ (Isaac Makwala)だけ。
一体何が起こったのでしょうか?
実は宿泊していたホテルで食中毒(イギリスの規定で48時間の隔離が必要な感染性胃腸炎)を発症しており、その影響でこの日予定されていた男子200m予選、翌日に予定されていた男子400m決勝を欠場しなければならない事態に。
しかし、48時間の隔離期間が終了したタイミングでIAAFから救済処置として1人だけの男子200m予選(タイムトライアル)が行われる事に。
準決勝進出ラインである20秒53を上回るタイムでゴールすれば良かったわけですが果たして?
大歓声を受けてたった一人で挑んだタイムトライアルの結果は20秒20のタイムで見事準決勝進出。ゴール後には腕立て伏せをしてアピール。※2015年の男子400mのレースでもゴール直後に腕立て伏せをするというアピールをしていたアイザック・マクワラ。
その後に行われた準決勝も2位でゴールして、いよいよ決勝の舞台。決勝のレースには史上最年少 (18歳5か月)で決勝進出を果たした日本のサニブラウン・アブデル・ハキームの姿も。
決勝では残念ながら6着に終わりますが彼にとっては忘れられないレースになった事でしょう。
レース後のインタビューでは後ろ向きな発言は全くナシで、全力を尽くせたのでハッピーだと力強く話しています。
転倒に次ぐ転倒
2011年 韓国・大邱(テグ)大会。
女子1500m決勝では酷いアクシデントがアメリカのモーガン・ユーセニー (Morgan Uceny)に降りかかります。
レース半分を越えて2分39秒付近。
バランスを崩して転倒したケニヤのヘレン・オンサド・オビリに巻き込まれる形でそのすぐ後ろを走っていたモーガン・ユーセニーも派手に転倒。
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トラックに転がってしまったもののすぐに立ち上がってレースに復帰しようとする2人でしたが、集団からは遅れてゴールする結果に。
動画の5:28付近では一体何が起こったのかをズームしてリプレイされていますが、ヘレン・オンサド・オビリに乗り上げる形で巻き込まれたモーガン・ユーセニーの姿がはっきり映っていますね。さらにその後ろの選手たちは上手くジャンプをしたりして避けていますが真後ろだったのが運の尽きだったようです。
しかし悲劇はこれだけでは終わりません。最悪の事態が再びモーガン・ユーセニーを襲います。
舞台をオリンピックに変えて。
それは世界陸上テグ大会の翌年に行われた2012年ロンドン五輪。
女子1500m決勝。レースタイム3分10秒付近で残り400mの鐘が打ち鳴らされる中、バランスを崩す選手が数人現れ、連鎖反応を起こすようにしてロシアのエカテリーナ・コステツカヤと接触してしまい、トラック上に倒れ込む選手が一人。
自分にチャンスが無くなってしまった事を自覚するとその瞬間に地面を叩いて悔しがるのはモーガン・ユーセニーでした。
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動画内8:00付近ではスロー映像がリプレイされますが、地面を叩いて悔しがる動きから彼女の無念さが伝わって来て心が痛いですよね。
実は2011年、2012年は彼女にとって最も調子の良かったシーズンで、2011年には1500m走で年間ランキング1位獲得もあり、これは1985年以来のアメリカ人選手による獲得という快挙だったんですよね。