羽根付き餃子の発祥には壮絶なドラマがあった?さいしょの人はスゴかった
21年2月14日放送の日テレ系「香取&直美 ニッポンのレジェンド発掘SP さいしょの人はスゴかった」で紹介されたのは『羽根付き餃子を最初に作ったのは誰?』というトピック。実はその誕生の裏側には壮絶なドラマがあり「恩返し」がキーワードだったそうで、それは一体どんなストーリーだったのでしょうか?
スポンサーリンク羽根付き餃子の歴史
パリパリとした薄皮が付いた羽根付き餃子が最初に生まれたのは1983年(昭和58年)の事。
1983年創業の蒲田の中国料理店「你好(ニーハオ)」が元祖。
鎌田餃子ブームの火付け役にもなった今や有名店。
そしてコチラが羽根付き餃子の生みの親である八木功さん。
1934年に中国・旅順で生まれた八木功さんは第二次世界大戦の折、日本人の父親だけが日本に引き揚げとなり、わずか11歳で中国残留邦人に。
当時は食べ物にも困る生活で、腐ったトウモロコシをもらっては食べ繋ぐような毎日だったとか。
そんな中でも必死に生き抜き、やがて職を得てからは建設会社の現場監督まで任されるように成長。
家庭も築いて暮らしも安定して来たある日、突然日本から届いた便りが一通。
それは行き別れた父からの「日本に来てくれないか?」というメッセージでした。
既に中国に生活基盤をしっかり築いていた事もあって、日本に行くとまたゼロからのやり直しになるのでは?と悩む八木功さん。
特に言葉の大きな壁は深刻。
1970年代は帰国した中国残留邦人が言葉の問題もあって日本で職に就けないという問題が社会問題化していた時代。
しかしそういった不安もありつつも、1976年9月、八木功さんは父親の願いに応える一心で妻と子どもと共に日本に移住する事に。
この時年齢は既に45歳。
移住してすぐは職に就く事が出来ず生活保護を受けて生活する毎日でしたが、とにかく日本語を覚える事が先決と考え、当時8歳の息子、勉くんが通っていた小学校の日本語学級に一緒に通学する事に。
そこで出会ったのが教師の善元幸夫先生。後に人生の恩人となる人物。
親子で日本語を習い、全てはここから始まるハズでしたが思いもよらない悲劇が起こってしまう事に。
1979年7月19日に自宅に善元先生からかかってきた一本の電話。
「すぐに病院に行ってください!」
慌てて病院に向かうとそこで待っていたのは、変わり果てた姿になった息子の勉くん。
わずか8歳でこの世を去る事になった勉くんの死因は溺死。
学校帰りに河川敷で遊んでいた所、足を滑らせて川に転落するという事故によるものでした。
川には立ち入り禁止の看板が立っていたものの、まだ日本語に慣れていなかったが故に起きてしまった悲劇。
それからは子どもを失ったショックから体調を崩すようになった八木功さん夫婦。
暗い空気に包まれてしまった八木さん一家を慰めようと善元先生も頻繁に家を訪ね、その甲斐もあって何とか気持ちを持ち直すようになった八木功さん夫婦。
スポンサーリンク家族同然のような付き合いをして行く中で、ある日八木功さんが恩返しにと本場中国の家庭料理を善元先生に振る舞う事に。
料理人だった父親の影響で料理の腕があった八木功さんでしたが、その味を大絶賛した善元先生は「これを仕事にしてみてはどうだろう?」と提案。
これに一念発起した八木功さんは日本で料理店を出す為に研究をスタート。
得意料理だった水餃子は中国では定番料理でしたが、日本では焼き餃子のほうがメジャーである事を知った八木功さんは家で試行錯誤を繰り返す事に。
そこで蘇えって来た記憶が、中国・大連市で食べた焼き肉まん(水煎包)。
鉄板で蒸し焼きにして皮の部分のカリカリとした焦げ目を美味しいと感じたあの記憶。
ここから、あのカリカリとした食感を餃子に取り入れるにはどうすれば?と考えるうちにあるアイデアを思いつく事に。
皮に使っていた小麦粉を熱湯で溶かして餃子にかけて焼いてみると羽根が付いたような薄皮をまとった餃子が誕生。
すぐに善元先生に出来上がった羽根付き餃子を試食してもらうと「すぐに店を始めるべき!」と太鼓判。
この時まだ生活保護で暮らしていた事もあって開店資金が無いという問題もありましたが、善元先生先導の元、羽根付き餃子の試食会を開く事で協力者を募り、最終的には78人から370万円の資金援助を受ける事に。
「この恩は一生をかけて返す。」と心に誓いながら開店させたのが「你好(ニーハオ)」。
すると、オープン初日から毎日70人以上の行列を作る上々の滑り出し。
今でもお店には支援してくれた人の名前を掲示するボードが飾られ、宝物と語る八木功さん。
開店から37年間一日も休まずに恩返しのために励んで来たと語る八木功さんは、いくら物価が上がっても餃子の値段は開店当初からいっさい変えていないとか。
「儲けを考えると皆さんの応援してくれた気持ちが分からなくなる。」
周囲は羽根付き餃子で特許を取るべきと提案するも「みんながやってくれれば良い。」と返したという八木功さん。
「みなさんのために一生懸命やっていけば人生は良いと思います。」
以上「香取&直美 ニッポンのレジェンド発掘SP さいしょの人はスゴかった」から羽根付き餃子の誕生の裏にあったエピソードについてでした。