歩行者天国が始まったのはなぜ?きっかけは?チコちゃん
26年7月24日放送の「チコちゃんに叱られる」の問題『歩行者天国をするようになったのはなぜ?』の答えなどチコジェクトXと共にまとめてご紹介。
スポンサーリンクゲスト出演者
【ゲスト】ハライチ岩井、ラランド サーヤ
【VTRゲスト】田口トモロヲ(ナレーション)
歩行者天国をするようになったのはなぜ?
2問目の出題は、
なんで歩行者天国ってするの?
チコちゃんの答えは、
道を人間のもとに取り戻すため
解説は横浜市立大学の鈴木伸治教授。
という事でここで始まるのはチコジェクトX「ロード ~なんでもないような道が幸せだったと思う~」。
時は高度経済成長まっただ中の1960年代、道路の整備が進んでマイカーブームが到来すると日本人の暮らしはますます便利なものに。
その一方でこの大きな変化に対して一石を投じたのが当時37歳の全国最年少市長として職に就いた北海道旭川市長の五十嵐広三。
もともと地元の旭川で民芸品を販売する会社を経営して実業家として成功をし、街を盛り上げたいと市長になった五十嵐でしたが旭川駅前を通る平和通商店街の車の交通量の増加を問題視。
スポンサーリンク街を走る車の数が増えると共に自ずと増えたのが全国の都市部における交通渋滞で、旭川も例に漏れず車で道が溢れるという深刻な状態に。道の主役が車にとって代わり人間が邪魔者扱いされる時代の到来に危機感を覚えた五十嵐市長は古き良き日本が持っていた道を取り戻そうと「車社会からの解放」「人間性の回復」「人が人らしくいられる道を取り戻す」というコンセプトをもとに車が入れない道を作ろうと計画。
旭川駅前から続く約1kmの大通りを歩行者専用道路にするべく動き出した五十嵐市長でしたが、商店街には約200軒のお店が並んでいて既に人が減って寂れゆく状態だった商店街に車が入れなくなるとさらに廃れてしまうと高齢の店主たちを中心に猛反対を受け、当時70歳に近かった商店街理事長の山本政次郎も五十嵐市長には同意せず計画は難航。
それでも「道路を自由に歩ければ商店街に人が戻る」と粘り強く交渉を重ねた五十嵐市長の努力の甲斐あって商店街の若い店主たちを中心に歩行者専用道路に賛同する者たちも現れて、五十嵐市長率いる若いチームは何度も反対する理事会に足を運ぶこと2年、遂に理事会の了承を得ることに成功。こうして1969年4月に計画が本格的にスタートし、道の真ん中に噴水を設置したり休憩スポットになるベンチや花壇の整備などを含めた社会的実験が動き出す事に。
ところがこれに伴って道路の使用許可を得るために消防・建設省(現在の国土交通省)・警察なども交えて行われた会議では「天下の歩道を何だと思ってる」「法を無視した暴挙」「避難経路の確保は?」「事故が起こった時の責任は?」とここでも反対勢力が現れて、当時は車両の通行禁止といえば毎年のお祭りなどに限られていて社会実験のために大規模な交通規制が敷かれるというのは認められない時代だったこともあって計画は暗礁に乗り上げる事に。
そんな停滞ムードが漂う中、最初はこの計画に猛反対していた商店街の山本政次郎理事長が「私はどのようにでも責任を取るが、若い芽を摘むような事だけはしないで欲しい」と声をあげた事がきっかけに国側も態度を軟化させて1969年8月3日に念願だった道路使用許可を得る事に。
スポンサーリンクこうして1969年8月6日から17日の期間で歩行者専用道路が実施される事となり、突貫工事とばかりに前日は徹夜で花壇の設置などが行われていよいよ迎えた当日。テープカットやハトを飛び立たせるセレモニーと共に念願だった歩行者専用道路「買物公園」がオープン。五十嵐市長の最初の構想から実に4年の歳月を経て実現した壮大なプロジェクトは約2週間の日程で来場者92万人と大成功を収めて、設置された遊具で遊ぶ子どもたちやベンチに座ってアイスを食べる老若男女など人が主役の道が旭川の商店街に戻ってくる事に。
当時の旭川の人口が約30万人で、買物公園のオープン日には40万人もの人出があったといわれているこの成功は全国で報じられて、翌年の1970年8月には銀座・浅草・新宿・池袋で1日限定の歩行者専用道路が実施されて歩行者天国と名付けられる事に。
これを皮切りに全国へ広まっていった歩行者天国に対して五十嵐市長はのちに「原動力は何といっても市民の結集した力である」という言葉を残したというまとめで2問目は以上。
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