日本陸上男子リレーチームはなぜ速い?アンダーハンドパスだけではない指導・練習方法とは?
世界の舞台でメダル獲得を成し遂げている日本陸上男子リレーチーム。その速さの秘密としてアンダーハンドパスがカギとメディアでは語られがちですが、実はそれ以外にもリレーチームの走力を上げる為には様々なポイントがあるのはご存知でしょうか?
という事で19年11月3日放送の「NHKスペシャル シリーズ TOKYOアスリート第5回 陸上リレー最速の“絆”」の内容からアンダーハンドパスはもちろんのこと、「メンバー選考」「リレーの指導・練習方法」「個の力ゆえの難しさ」などをキーワードにしてまとめてご紹介します。
スポンサーリンクアンダーハンドパスで生まれる差
まずはどうしても無視できない日本男子リレーチームのトレードマークともいえるアンダーハンドパスについて。
世界のほとんどのチームが上から渡すオーバーハンドパスを採用する中で日本が選択したのは異端のやり方。
このアンダーハンドパスの威力が発揮されたのは2016年リオオリンピック。
この時の日本の合計タイム(シーズンベストタイム)は決勝チームの中で6番目。
1走 山縣亮太 10.05、2走 飯塚翔太 10.36、3走 桐生祥秀 10.01、4走 ケンブリッジ飛鳥 10.10 合計40.52
当時は日本チーム内で9秒台で走る選手はゼロでした。
この時もやはり9秒台の選手ばかりで合計タイムトップのアメリカは39.58。2位のジャマイカは39.60。日本チームとの差は約1秒。
この3チームを「バトンゾーン」に注目して比較してみると
2走から3走の繋ぎで個人走力に勝るジャマイカ、アメリカの選手が先にバトンゾーンに進入。
しかしアンダーハンドパスによって日本が一気に差を縮めます。
するとどうなるのか?
何とバトンゾーンを飛び出す瞬間を図解してみると日本が先頭で通過。
バトンゾーンタイムを比較すると、
- アメリカ 1.96
- ジャマイカ 1.95
- 日本 1.85
この時点で日本が0.1秒リード。
アメリカの選手が秒速11m近い速度から大きく減速してバトンを受け渡した時のスピードは秒速約10m。
さらにバトンを受け取る側の選手は秒速7mでバトンを受けてから慌てて一気に急加速して秒速9mに到達。
これに対して日本は、
秒速11mからわずかに減速して秒速約10.5mでバトンパス。
受け手側は加速が高まった状態で秒速約9.7mでバトンを受け取りそこからその速度をほぼキープ。
リレーの引継ぎにおいてスピードの上げ下げが極力起こらないように無駄のないパスが行われている事が鮮明に。
さらに3走からアンカーの4走へバトンを受け渡す際に腕を上げている時間を比較してみると、
アメリカは7歩。時間にして1.6秒。さらになかなかバトンが来ないので不安から振り返るという無駄な動きも。
これに対して、
日本はたった2歩。時間にして0.4秒でバトンパス完了。
スポンサーリンクYouTube動画。※再生がブロックされますので、この動画はYouTubeでご覧ください。からご視聴ください。
結果は皆さんご存知の通りに銀メダル獲得。これには短距離界のスーパースターであるウサイン・ボルトも驚愕。
速度変化のグラフについて桐生祥秀は、
桐生祥秀「出てから何メートルのタイムとかあんまり興味ないから覚えてなくて。笑。それでも0.1秒違ったので。興味なくても結果的にそうなってたらいいかなと。笑」
意外にタイム的な細かい分析には無頓着w
アンダーハンドパスはなぜ速い?
アンダーハンドパスによって加速が落ちない理由について、日本代表短距離強化コーチの土江寛裕は、
土江寛裕コーチ「手を上げてる場所が違うんですね。オーバーハンドの場合はかなり上まで上げるんですよ。これってもう走るのには全く不自然な形ですよね。」
「だけど、アンダーハンドパスの場合は腕を振っていて腕振りの一番後ろで止めとくだけなんですね。だから走りの中でもらうと。」
「腕振りを後ろで止めて(バトンを)持ってると。極端な話、腕振りしてて“ある瞬間からバトンを持ってる”ぐらいの感じなんです。」
「究極はそこです。」
走るフォームの邪魔にならない形でバトンを受け取れるのがアンダーハンドパスのメリットなんですね。
リレーの練習方法
続いては日本男子リレーチームの速さの秘密となるその練習方法について。
19年9月7日に行われた日本代表リレー合宿。
日本のトップスプリンターたちが一堂に会して行われた練習でまず気になったのは、
バトンパスのかけ声
かけ声に合わせて受け手が手を上げるとすぐにバトンが渡るのがポイント。
手を上げている時間を出来るだけ短縮するのが勝利の鍵になるのは先ほどのタイム分析で明らかになっていましたが、
これを実現するためには、足の運びや腕の動きを見極めて最適なタイミングでかけ声をかけるのがコツ。
理想は「点に近い渡し方」で腕を一瞬上げた瞬間にバトンの引継ぎが終わるのが最終形。
しかしその受け渡しの瞬間の速度は時速40km。自転車で坂道を猛スピードで下りながらバトンパスを行っている感覚ですよね。
しかも、バトンの受け手はチームメイトを信頼して「後ろを全く見ない」というのもポイント。
信じるのは後ろから聞こえる声だけ。
さらにバトンパスの瞬間に以下の画像のように「両者の手と手が重なる」ように受け取っています。
答えは出来るだけバトンの根元を持たないと次の走者が持つ場所が狭くなってしまうから。
このようにチーム練習によってチームワークを高めていく事が重要になるのですが、
他の選手について尋ねられた桐生祥秀は、
桐生祥秀「リレーメンバー全員思ってる事だと思うんですけど、ここに目立ちたくて選手やっているので、あんまり他人の事どうどう答えるってあんまり好きじゃない。笑」
あくまで個人種目を優先して、その次にリレー種目があるという考え方がうかがえる発言。
スポンサーリンクリレーメンバーの選び方
ではそんなリレーチームをどう作り上げるのか?そのメンバー選定の方法について。
まずは1走~4走までの役割分担を土江寛裕コーチの解説を見てみると、
- 1走 ロケットスタート
- 2走 トップスピード
- 3走 カーブに強い
- 4走 勝負強さ
1走ではゼロから一気に加速してレースのペースを握る先駆け。さらにスタート前にスポットライトが当たったりと注目が集まるので高まる緊張の中でスタートを決められるか?が鍵。
2走はストレート区間が長い為にトップスピードに優れるエース級で勝負。ここからバトンの受け取りと受け渡しの両方が必要になってくるのでエース級にも関わらずチーム練習が必要不可欠。
そして3走は最もテクニカルなカーブに強い選手。2走で作ったスピードを生かしつつ、さらにカーブをこなすという最難関区間。
ちなみに3走を任せられた際に桐生祥秀はカーブを曲がっていく所が最大の見せ場としてテンションが上がるとの事。
そしてアンカーの4走は長いストレート区間の後にフィニッシュを決めるスーパーエース。特に並んだ勝負の時にどこまで戦えるのかが重要。
多田修平、白石黄良々、桐生祥秀、小池祐貴の4選手に「どの区間を走りたいか?」とアンケートをとってみると、
- 多田修平 1走
- 白石黄良々 2走 or 4走
- 桐生祥秀 4走
- 小池祐貴 3走
という答え。
桐生祥秀「3走も好きなんですけど、4走もやりたい。一番カッコよくないですか?笑。フィニッシュ決めてやったぞ感が強いですもん。」
白石黄良々「(どちらかと言えば)4走ですね。」
多田修平「僕はスタートがすごい好きなので。あとやっぱり4走と一緒で最初に目立つんですよ。」
小池祐貴「3走ですね。コーナーが得意っていうのもあるんですけど、日本が初めてリレーでメダル獲った髙平慎士さんって3走を走った方がすごい憧れだったので高校の時からずっとコーナーワークの練習をしていました。」
みんな基本的に目立ちたがり屋ばかりw やっぱりアンカーは花形ですしね。
リレーの指導方法
続いては個の力も高まってきて個人種目優先の傾向がより高まっている日本陸上男子の現状を踏まえた指導の難しさについて。
その前にリレーの難しさを象徴するレース映像をご紹介。
YouTube動画。2019年5月に開催された世界リレー横浜大会。※再生がブロックされますので、この動画はYouTubeでご覧ください。からご視聴ください。
日本のメンバー構成は多田修平、山縣亮太、小池祐貴、桐生祥秀の4人。
3走までは順調にバトンをつないで予選は余裕かと思いきや・・・。
小池祐貴→桐生祥秀のバトンパスで悪夢のミス。
リプレイ映像でよく見てみると手渡しではなく、結果的に投げる形でバトンパスが渡っていたために失格判定。地元開催での決勝の舞台へは進めませんでした。
ミスはなぜ起きたのでしょうか?
本来は端を持つべきところがこの時はほぼ真ん中。
桐生祥秀は持つ所を見失ってとっさにバトンを探る動きをしてしまい、結果お手玉のような状態に。
このミスは実は前の区間に伏線があり、
2走の山縣亮太は伸び盛りの3走の小池祐貴のスタートダッシュのスピードに追い付く事が出来ずにバトンを渡すタイミングにズレが生じるという小さなミス。
目いっぱい伸ばした手で何とかバトンを受け渡すものの、手同士をつなぐようにして受け渡す方法がとれず。
小池祐貴「バトンをもらった時にかなり短かったっていう時点で完全に持ち直すべきだったんですけど。」
そして桐生祥秀も振り返らないハズなのに後ろを確認しつつのスタート。
スポンサーリンクミスの背景にあったのはつまる所、練習不足。
新たな選手が台頭して次々とメンバーが入れ替わる中で習熟度を高めるための練習がほとんど出来ずに本番を迎えていました。
土江寛裕コーチ「バトンを受け渡しする時に一番大きな邪魔になるのって“不安”なんですよ。それを消すのはお互いがお互いの事をどれだけ“信頼”しているか。」
個の力が高まって来た事でそれぞれの選手は個人種目に焦点を当てて世界を転戦していますが、そうなるとリレーのために一か所に集まって練習という時間が取れなくなってしまうんですね。
これに輪をかけて、アメリカを拠点に活動しているサニブラウン A・ハキームは主に日本で行われるリレーの練習に参加する事は難しいという現実。さらに所属しているフロリダ大学ではオーバーハンドパスでリレー練習を行っているのでアンダーハンドパスへの習熟度も望めないという事も。
チームの練習不足に加えて日本最速のサニブラウンをどのようにチームにフィットさせるのか土江寛裕コーチはある一つの指導方法を考え出します。
7月にヨーロッパでのレースシーズンを戦う選手たちを一挙にスペインに集めてリレー合宿を行おうという計画。そこにアメリカのサニブラウンも召集して特訓する算段でした。
しかし・・・。
7月11日のスペイン合宿にはコンディション不良を理由にサニブラウンは直前キャンセル。
他にも多田修平、ケンブリッジ飛鳥、白石黄良々なども個人の大会や練習を優先させたために合宿に集まったのは小池祐貴、桐生祥秀の2選手のみ。
土江寛裕コーチ「いくら世界記録で走ってもバトン練習をしていない選手が日本のリレーメンバーに入る事は無いです。」
そう厳しい口調で語る土江寛裕コーチ。
「まずは個人に集中」というのは陸上選手にとって最優先事項なのでそれを無理やり改めさせる権利はコーチにはありません。
それを最大限尊重しつつ、リレーのためにどのように練習をコーディネートしていくのか?そこがリレーチームの難しさですね。
個人でも成績が狙えるぐらいに育って来た日本陸上界では新たな悩みの種。
新たな指導方法へ
思うような練習環境を整えられなかったスペイン合宿でしたが、土江寛裕コーチは新たな策に打って出ます。
スペイン合宿からわずか2日後となる7月13日。
イタリアの地に集まっていたのは多田修平と小池祐貴の2選手。
国際大会出場の為に調整中の2人ですが、ここで行われたのが「区間練習」。
一部の選手だけでも集まれる場所があれば土江寛裕コーチが積極的に現地に出向いて、そこで区間ごとの練習に区切って練習をしようという作戦。長いコーチキャリアでもかつてない試み。
しかしその練習が行えるのはわずかに2本だけ。
試合レベルのスピードで行うリレー練習は選手に大きな負担をかけてしまうので、個人種目への影響を考えると最小限。
この日の練習で、初めて組んだ2人は1本目でバトンミス。
小池祐貴が上げた手にバトンが収まらずに結局手を上げたまま5歩。
練習はあと1本だけ。
合間に選手間ミーティングを入念に行い、小池祐貴は自分の手の出し方を詳細に伝えます。
小池祐貴「肩が上がって来ちゃうから。それで3歩になった時に我慢できなくて、もらう手がちょっと上に上がっちゃう。」
2歩だとこの辺の位置、3歩になるとこの辺の位置と細かい手の位置を確認。
個人個人ののクセもあるのでここまで精密に打ち合わせしないと完璧なバトンパスは実現しないんですね。
ミーティングを挟んで行われた2本目。この日最後の練習。
手を上げていた歩数は2.5歩。
土江寛裕コーチ「2歩半はほぼほぼOKだよ。」
満足いく結果が得られて嬉しそうな土江寛裕コーチ。
スポンサーリンクさらにその3日後。再度スペイン。
この日は経験豊富な桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥と経験の浅い白石黄良々が練習参加。
土江寛裕コーチ「分習(区間練習)と個人の練習(100m)のどっち先やる?どうしますか?」
桐生祥秀「分習で。」
桐生祥秀がリーダー役となって時間割などを決めているようですね。
練習はこの日も2本だけ。
1本目では初めての組み合わせながらも悪くない受け渡しを見せた桐生祥秀→白石黄良々のバトンパス。歩数は3歩に留めて笑顔のメンバーたち。
リラックスした表情の桐生祥秀ですが、一方の白石黄良々は繰り返し動きを確認してリレーの個人練習。
その根詰めた様子に「(白石)黄良々。休憩しよう?いいよ。」と声をかける桐生祥秀。
緊張をほぐそうと配慮する先輩の振る舞い。
白石黄良々「声かけとかもしてもらったので、自分的には練習には入りやすかったですし、バトン練習もやりやすかったです。」
さらに2日後はイギリス。この日の分習は桐生祥秀と小池祐貴の2人。
同級生でライバルでもある2人ですが、あの2か月前の悪夢のバトンミスからは積極的にコミュニケーションを取るように。
練習開始前にも手の位置を確認して準備は万端。
この日は悪天候だったためにたった1本の練習。
この時はスムーズなバトンパスではなかったものの、桐生祥秀がバトンを探る動きを最小限に留めて、小池祐貴が上手くバトンの位置を調整する事で何とかバトンパス。
決して万全とは言えない練習環境ながらもチームに変化が生まれようとしているのを土江寛裕コーチは感じていました。
それは指導陣主体で「こうしよう。」ではなく、選手間で積極的にコミュニケーションをとって「どうするか?」を考えていた事。共同作業で問題を解決していくプロセスを行う事もチームワークを高めるためには大事。
残る1ピース
そして最後に残る課題がサニブラウンをどのようにしてチームに組み込むか?という点。
10月の世界選手権ドーハ大会を前にして土江寛裕コーチはフロリダへ。
そこで面談を行い「日本のリレーにサニブラウンが必要不可欠である。」と強いメッセージを送ります。
スペイン合宿の状況やアンダーハンドパスについてなどじっくりと話し合った2人。
それを踏まえてサニブラウンの決断は、
本来出場予定だった9月30日~10月2日の200mのレースを欠場して、その期間はリレー練習に充てる事に。
そして迎えた世界選手権ドーハ大会。
予選でアンカーに起用されたサニブラウン。
桐生祥秀→サニブラウンのバトンはミスなく渡り、37.78のタイムをマーク。リオ五輪以降のベストタイム。
しかし・・・。
桐生祥秀はサニブラウンがミスを恐れて全力でスタートを切れていないと感じ、こう伝えます。
「絶対に渡すから全力で飛び出せ。」
十分な合同練習時間がとれていないので本番の予選レースですら重要な練習時間と捉えてどんどん微調整を加えて行きます。
そして迎えた決勝当日。
レースを控えてバトンパスを入念に確認する日本チームの姿がそこにありました。
やはりここでも選手たちが一堂に会する貴重な時間を逃してはいけません。
スポンサーリンクリレーチームの絆
そしていよいよこの時を迎えます。
2019年10月にドーハで開催された陸上世界選手権。4x100mリレー決勝。いわゆる4継。
決勝進出チームのそれぞれの選手が持つ100mのベストタイムを合計すると日本チームは、
1走 多田修平 10.07、2走 白石黄良々 10.19、3走 桐生祥秀 9.98、4走 サニブラウン・アブデル・ハキーム 9.97
合計40.21。
これは決勝の8チームのうちで上から5番目のタイム。特に速くもなく遅くもなくという中位グループ。
9秒台の選手ばかりを揃えて合計タイム最速のアメリカが持つ39.21と比べるとちょうど1秒遅い事になります。
しかしレース結果はアジア記録となる37.43のタイムを叩き出して見事に銅メダル獲得。
YouTube動画。
桐生祥秀からサニブラウンへのバトンパス。
予選後にかけられた言葉通りに全力で飛び出すサニブラウン。
サニブラウン「しっかり思いっきり出るっていう。絶対に渡してくれるだろうなっていうのはあったので。信じて出るのが一番大切なのかなって。」
桐生祥秀「予選のままで出たら絶対にメダルは獲れないという話をしました。絶対ムリですね。」
白石黄良々「僕も桐生さんに『俺思い切り出るから絶対渡してくれ。』って言われて僕もホントに絶対に渡すつもりでやったりとか。いけるだろうっていう自信を持って走る事が出来ましたね。」
実は世界的に見ても小学校やそれ以前の段階からリレー種目を行っている国は日本ぐらいという土江寛裕コーチ。
目指すは未だに成し遂げられていないリレー金メダル。
世界のバトンのレベルも上がっていて、個々の走力も上げつつでないとトップ奪取は難しくなっている現状。それでも挑戦し続けてもらいたいものですね。