駅伝の歴史や由来は?読売新聞の経営危機が発端?チコちゃん
23年1月6日放送のNHK「チコちゃんに叱られる 拡大版SP」の問題『駅伝ってそもそも何?』の答えは読売新聞が経営危機を脱するために開いたハチャメチャなイベントという事で番組内容を簡単にまとめてご紹介。
ゲスト出演者
【ゲスト】大森南朋、有村架純、杉野遥亮
【VTRゲスト】山中聡、竹森千人、目黒祐樹
駅伝ってそもそも何?
1問目の出題は、
駅伝ってそもそも何?
大学のPR、駅のPRといった答えが出ていますが、
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
という事でチコちゃんの答えは、
新聞記者が経営危機を救うために開いたハチャメチャなイベント
解説は笹川スポーツ財団理事の佐野慎輔さん。
日本発祥の駅伝というスポーツの始まりは1917年に開催された東京奠都(てんと)五十年奉祝博覧会。
明治維新によってそれまでの江戸から東京に名前が変わり、明治天皇が京都から東京に住まいを移したのが1868年の東京奠都。
そんな歴史的な出来事の50周年を祝うイベントだったのが東京奠都五十年奉祝博覧会なわけですが、
これを盛り上げるために催されたのが読売新聞社主催の東海道駅伝徒歩競争。
そしてこれを企画したのが読売新聞の社会部にいた土岐善麿と大村幹のコンビ。
ここで始まるのがNHKたぶんこうだったんじゃないか劇場「いだてんもどき 駅伝誕生物語」
東京奠都五十年奉祝博覧会には東海道五十三次の模型を作る企画が進んでいましたが、模型作りには実地調査が必要という事で読売新聞から派遣されたのが社会部の土岐善麿。
実はこの頃は日本が初のオリンピック参加を果たしたストックホルムオリンピックなどもあって世間がスポーツに大きな関心を寄せていた時期で、
1915年には朝日新聞が今の夏の甲子園の元祖となる野球大会を開催したり、1914年に毎日新聞が全国規模の水泳大会を催したりと新聞各社もこぞってスポーツイベントを開催するという状況。
朝日新聞や毎日新聞の発行部数は当時30万部ほどで、そこに来て読売新聞の発行部数は3万部程度と経営危機状態。
そこで起死回生の一発として白羽の矢が立ったのが駅伝。
京都から出発して東京の日本橋に至る東海道五十三次の現地取材を行っていた土岐は、江戸時代の飛脚からヒントを得てマラソン大会を開くことを提案。
五十三の宿場でリレーしながら物を運んで京都-東京間を3日ほどで走破していた飛脚になぞらえてマラソンでリレーするというわけですね。
外務大臣・本野一郎の父親が読売新聞創業者の一人だったという事で強力なバックアップももらって読売新聞ではマラソンリレー開催に向けて準備を着々と進めていましたが、
この時点では駅伝という言葉は無く、あくまで「マラソンリレー」という名称。
そこに駅伝の名称を考案したのが日本のスポーツ界の発展に寄与した大日本体育協会副会長の武田千代三郎。
宿場で馬を乗り継いで公用をこなしていた宿駅伝馬制から名前を取って駅伝。
こうして京都三条大橋を出発して上野不忍池をゴールとする全23区516kmの前代未聞の大レースがスタート。
結果は大盛況で幕を閉じた駅伝でしたが、読売新聞は経営危機を脱するどころかまさかの大赤字。
ちなみに責任を取る形で土岐善麿は読売新聞を退社しますが、その翌年には朝日新聞に入社するというちょっとした出来事もあったとか。
という事でコチラが結論。
駅伝はそもそも新聞記者が経営危機を救うために開いたハチャメチャなイベント
でした。
1問目は以上。
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