なぜ給食に揚げパンが出るようになった?その時歴史がチコった!?「チコちゃんに叱られる!」
20年10月23日放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」はゲストに2回目の登場となる陣内孝則さんと初登場となる丸山桂里奈さんを迎えて紹介されたのは『なぜ給食に揚げパンが出るようになった?』という疑問。松平定知さん登場のガチパロディ「その時歴史がチコった」にもご注目。
※同放送回のその他の疑問は別記事でフォロー。
スポンサーリンク出演者
【メインMC】チコちゃん(声:木村祐一)
【アシスタント】塚原愛(NHKアナウンサー)
【ナレーション】森田美由紀(NHKアナウンサー)
【レギュラー】ナインティナイン 岡村隆史
【ゲスト】陣内孝則、丸山桂里奈
【VTR】松平定知
チコちゃんの疑問その1
なぜ給食に揚げパンが出るようになった?
チコちゃん「どうも~こんチコは~!」
毎回微妙に挨拶を変えてくるチコちゃんですが、早速のゲスト紹介へ。
まずは2回目の登場で準レギュラーに格上げになった「ザ・ロッカーズ」こと陣内孝則さん。
ちなみに俳優の小林薫さんがチコちゃんの仕組みについて興味津々だったというこぼれ話を披露w
続いては新婚ホヤホヤの丸山桂里奈さん。岡村さんは昨日に結婚をメディアで発表したばかりですけどね。
オープニングはこの辺で1問目の指名は、
この中で一番、給食を残さず食べてたステキな大人ってだーれ?
何となく解答者は陣内孝則さんに。
チコちゃんの疑問は、
なんで給食に揚げパンが出るようになったの?
政府が揚げパン業者と癒着していたという陰謀説を唱える陣内孝則さんですが、
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
陣内孝則「すいません。自分、コロナ禍でボーっと家にいました。笑」
丸山桂里奈さんに参考までに聞いてみると「揚げている人がアゲアゲの人が多かったから」という安定の答えw
改めて、高温で揚げているので家に持って帰っても食べられるという答えを言う陣内孝則さんですが、
チコちゃんの答えは、
欠席した子どもにおいしいパンを届けるため
解説は東京大田区で給食の栄養士を務め、給食の歴史について詳しい木崎雅紀子さん。
揚げパンの発祥については長い間謎だったそうですが、2004年~2005年頃に給食の歴史について再調査した所、
「揚げパンは東京大田区の小学校で誕生した可能性が高い」という事が判明したとの事。
日本各地の給食献立表を調べた所、揚げパンが登場するのは確認できた限りでは昭和30年代半ば以降。
しかし、東京大田区では昭和29年(1954年)の段階で既に揚げパンが給食に出されていた記録が存在。
さらに追加調査すると大田区の嶺町小学校で給食の調理師をしていた篠原常吉さんという方が昭和27年(1952年)ごろに考案した可能性が高いと結論付けられたとか。
ここからは揚げパン誕生の歴史について迫っていきますが、
ナレーション「大先輩。お願いします。」
森田アナから松平定知さんにナレーションチェンジして始まったのが、
映像が切り替わると別収録した映像に。本格的なセットは恐らく画像合成だと思われますがw
パロディ具合がガチすぎて岡村さんからも「すげー・・・。」「もうチコちゃんじゃない。」の言葉が漏れる事に。
さて、肝心の揚げパン誕生のその瞬間というのは、正確な日付は特定は難しいものの、
和27年(1952年)の冬のある日
という事で話が進んでいきます。
時は明治22年(1889年)。山形県で学校給食がスタート。
昭和16年(1941年)に戦争によって学校給食は一旦中止されますが、終戦後の昭和22年(1947年)には無事再開。
この当時の給食は援助物資として送られて来たトマトの缶詰などを使ったスープと脱脂粉乳が主な献立でした。
そして昭和25年(1950年)には主食・おかず・脱脂粉乳の完全給食がスタート。
この時の給食の主食に登場したのがコッペパン。
コッペパン・脱脂粉乳・みそ汁が定番献立の時代。たまに出るくじらの竜田揚げはご馳走でした。
時は流れて昭和51年(1976年)には米飯給食が導入され給食は大きな転機を迎えます。
そして1998年に出版された「なつかしの給食献立表」という書籍。
そこには揚げパンのルーツついて「ついにわからなかった」という一文。
スポンサーリンクこの本を見て過去の記憶をよみがえらせる読者が一人。それが村岡玲子(旧姓:篠原)さんという方。
「給食の調理師をしていた父が美味しいモノが出来たといってわら半紙に包んだ揚げパンを一つ持って帰ってきたのを思い出した。」
玲子さんの父である篠原常吉さんは生前は西洋レストランのコックさんで、昔気質の人で仕事と家は完全に分ける人だったとか。
そんな人が珍しくも仕事場から手土産を持って帰って来たという出来事は玲子さんの記憶に深く刻まれていたんですね。
この時点で常吉さんは既に他界していたので、玲子さんはかつての職場の同僚の元を訪ねて詳しい話を聞く事に。
そこで辿りついたのが養護教諭だった石渡ヒロさんという方。
ご高齢のヒロさんに代わって娘の翠さんが応対。
そこで得られた証言は「揚げパンを考えたのはあなたのお父さんですよ。私見てましたから。」というお話。
やっぱり父が考案者だった。と安堵したのもつかの間、新たに「私見てましたから。」という気になる言葉。
石渡翠さんは当時小学生だったハズですが一体何があったのでしょうか?
時は運命の年となる昭和27年(1952年)。場所は大田区の嶺町小学校。
当時小学3年生だった翠さんは母親のヒロさんが養護教諭として働く同じ小学校に通っていました。
そこで昼休みや放課後の空き時間にはよく母親のもとを訪ねていたという翠さん。
そんなある日、母親と共に給食室に向かうと翠さんが目撃したのがコッペパンの山。
実はこの年の冬は流行性の風邪が大いに流行っており、欠席する生徒が多く、給食のコッペパンが大量に残ってしまう事態に。
欠席した児童のパンは近所の児童が放課後に届けるのが慣例。
ただ、この頃のコッペパンは時間が経つと硬くパサパサになってしまうという難点を抱えていました。
そこで給食室では病欠の子どもたちのために少しでもおいしいパンを提供したいと試行錯誤する事に。
すると「揚げてみようか?」という人物が現れます。
大きな鍋でコッペパンを揚げ、きつね色になったパンにはたっぷりの砂糖がまぶされました。
これが小学生だった翠さんが見た揚げパン誕生のその時でした。
この人物というのが篠原常吉さんだったんですね。
当時の事を鮮明に覚えているという石渡翠さん。
当時は揚げパン誕生の経緯については気にもしていなかったそうですが、後に母親のヒロさんから揚げパン誕生について詳しく聞く機会があったとか。
そこで語られたのが、休んでしまった子どもたちのために少しでもパンをおいしくしたいという給食室の思いだったんですね。
この日揚げられたパンは一つ一つわら半紙に包まれて配達されることに。
そして、篠原常吉さんは残ったパンを一つだけ家に持ち帰り、当時20歳だった娘の玲子さんはその揚げパンを目にする事に。
という事はつまり、一番最初に揚げパンを食べたのはその日欠席した子どもたちだったわけで、体調が回復して登校した子どもたちは後に揚げパンの話を学校でする事に。
その話がどんどん広まった事で今度は給食のメニューとして揚げパンを提供する事になったと。
ということでコチラが結論。
給食に揚げパンが出るようになったのは欠席した子どもにおいしいパンを届けるため
でした。
最後は松平定知さんからのメッセージ。
歴史が動いたと思う時はどんな時?という問いかけには「近所の中華料理屋さんのショーウィンドウに平成13年度より五目麺は全てあんかけとさせていただきます。店主。と書いてあった時。」と超ローカルネタを入れてくるチコちゃんw
ちなみに「その時歴史が動いた」を是非やりたいというのがチコちゃんスタッフの夢だったとか。
企画を松平定知さんに打診した所、快諾していただき、収録当日は台本ナシで全てご自身の言葉で進行をやり切ったそう。
温かいエピソードを完璧なパロディーで紹介するというチコちゃん演出の一方で、
陣内孝則「すいません。なんか、政府と癒着してるなんて言って。笑」
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