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日本が時間に厳しいのはなぜ?理由は鉄道の開業 歴史デリバリー


22年6月20日放送のNHK「歴史デリバリー」では日本で時間に厳しくなったのはなぜ?いつから?というテーマ。答えは鉄道にあるようですが番組内容をまとめてご紹介。

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飛鳥・平安時代の時間

720年に完成した日本の正式な歴史書・日本書紀には歴代天皇の業績が記録されていますが、

そこにはこんな文章(要約)、

「660年 皇太子(後の天智天皇)が初めて漏刻をつくって民に時を知らせた。」日本が時間に厳しいのはなぜ?日本初の時計

漏刻(水時計)は水位から時刻を読み取る装置の事。日本が時間に厳しいのはなぜ?日本初の時計 漏刻

660年当時の漏刻がどのような形状だったのか正確な描写は資料が残っていないので難しいですが、図は飛鳥時代につくられたものの再現。

一番下の水槽には一定のスピードで水が溜まるように設計されているので目盛りを読み取って時刻を知るわけですが、

飛鳥時代の時刻制度は1日を12等分。

1日を12等分した時間帯を「とき」と呼び十二支の文字で表現。日本が時間に厳しいのはなぜ?飛鳥時代の時刻制度

さらにときを4等分して刻という単位もあわせて使用。

この時刻制度にあわせて鐘を鳴らして時刻を知らせる、いわゆる時報によって時間を伝えるのがこの当時のルールでしたが、

例えば平安時代であれば太鼓叩く回数で「とき」を、鐘を鳴らす回数で「刻」を知らせるという方式。日本が時間に厳しいのはなぜ?平安時代の時報

ただしこれは宮中に勤める貴族たちに勤務時間などを知らせるものだったと考えられているので、庶民には関係の無いお話。

では貴族たちが時間厳守だったかといえば必ずしもそうでは無く、

平安時代の貴族である藤原実質の日記「小右記」にはこんな記述(要約)。

「欠席者が無く全て時間通りに行えた。これは近年ではなかったことである。」日本が時間に厳しいのはなぜ?平安時代の貴族は時間にルーズ

これは宮中で疫病退散の行事が開かれた時の事を書いたものですが、時間にルーズでサボる貴族も多かった事がうかがえますね。

太鼓や鐘の音だけで知らされる時刻だと聞き漏らしたり、数え間違えをしたりとなかなか正確な時間を意識するのは難しかったという事もあった様子。

また平安時代の庶民が時間を知っていたかどうか?については詳しい資料が残っておらず謎で、庶民が時間を知っていたことがはっきりしているのは江戸時代に入ってから。

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江戸時代の時間

江戸時代になると機械式の時計(和時計)が登場。日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代の和時計

機械式の時計は戦国時代にザビエルなどの宣教師によって日本に伝わったのが最初といわれていて、それを基に日本の時刻制度に合わせて作られた和時計は針が一つ。

平安時代とは異なって江戸時代の時刻制度は数で時間を表すのが一般的になっており、日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代は数で時間を表すように

さらには「文字盤が動く」という仕組み。

江戸時代は1日を夜明けと日暮れを境に「昼」と「夜」に分けていましたが、それぞれを6等分するという時刻制度。日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代の時刻制度

昼と夜の長さは季節によって変わるので夏だと昼は長く、夜は短め、反対に冬は昼が短く、夜が長め。日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代は昼夜の時間の長さが異なる

それでも6等分するルールはそのままなので自然と昼の1時間と夜の1時間の長さが変わるという事ですよね。

ややこしいシステムに思われますが、常に夜明けが六つ時、日暮れが六つ時に固定されているので大体の時間が把握しやすいというメリットも。

これに対応するために編み出された仕組みが文字盤を動かすという仕組み。

複雑な機構を持っていた事もあって和時計は大名など限られた人しか持っていなかったようですね。

一方で庶民たちはこの時代になっても音で知らされる時報(時の鐘)で時間を把握するのがもっぱら。

和時計で計測された時刻に従って本石町で鳴らされる鐘を皮切りに、日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代は時の鐘で庶民に時間を知らせる

その音を頼りに各所で連鎖的に鳴らしていくルールで、幕府管理のもとで庶民がこの操作を行っていたとか。

ちなみに江戸の庶民の待ち合わせには茶屋(現在のカフェや喫茶店のような業態)が利用するのが一般的で、日本が時間に厳しいのはなぜ?江戸時代の待ち合わせは茶屋

時の鐘を頼りに大体の時間を把握して相手が来るのを気長に待つというスタイル。

という事はこの時代でも時間に厳しいわけではなかったという事が推測できますね。

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明治時代の時間

明治時代になると鉄道の登場が大きなトピック。

鉄道開業当時(明治5年)の時刻表を見てみると、日本が時間に厳しいのはなぜ?明治時代の鉄道開業当時の時刻表

現在と同じ西洋式の時刻制度をもとに書かれていましたが「字」「分」という表記が気になりますね。

これはそれまでの「時」と区別する為の苦肉の策。

実は日本が西洋と同じ時刻制度に変わったのは鉄道開業の”翌年”の事。

その為、庶民にはまだ馴染みが無かった西洋の時刻制度の表記に合わせた時刻表を見た庶民が「○時」をそれまで使っていた「○つ時」と勘違いしないようにとわざわざ「字」と表記を変えていたんですね。

細かく時間を割る事で鉄道を正確な時間に動かす必要があったためにこんな事になったわけですが、

江戸時代などに使われた交通機関の渡し舟、かごなどは利用客の都合に合わせて動かすのが一般的。

「早めに行きたいからもう出発して。」「まだ○○さんが来てないからちょっと待って。」とかなりルーズな運用も可能だったわけですが、

一方、時間に沿って運行する(=時間に従う)鉄道ではそうはいかず個人の都合を無視するように変化。

そこでこの時間に厳しいルールを徹底する為に鉄道には「出発時刻の5分前に入場していないと乗れない」というルールも存在していたそう。

という事は日本が時間に厳しい国になったのは鉄道が大きく関係していたといえそうですが、

そうなると世界中に鉄道はあるのになぜ日本が殊更、時間厳守の国になったのかは謎ですよね?

時間厳守と鉄道

その謎を解明するカギは例えば明治27年の時刻表を見ると明らか。日本が時間に厳しいのはなぜ?明治時代の鉄道本数の増加

新橋から発車する列車の本数は開業当時の3倍以上に膨れ上がっていますが、

江戸時代の日本では馬車が普及しなかったので道路整備に遅れが生じており、鉄道で公共交通機関を一手にまかなってしまおうという計画のもと日本で一気に鉄道網が普及。日本が時間に厳しいのはなぜ?明治時代の路線図

そうなると利用客もどんどん増えるので本数も増大。

東京大学の中村尚史教授によると、

明治時代の鉄道利用客の数は世界と比べて日本はかなり多かったのに対して、

単線区間が多いなどその鉄道設備はまだまだ貧弱。

こうした状況の中で多くの列車をトラブルなく走らせるためには定時運行を徹底する必要があり、

このルールに利用客も従わざるをえなかった、自然と時間を守るようになったという事情があるとか。

他にも西洋の文化にならった近代化によって学校、工場などで時間に沿って一斉に動くというシステムが導入された事も大きく関係しており、日本の時間厳守が一気に進んだとも考えられるとか。

以上、歴史デリバリーから日本が時間に厳しいのはなぜ?いつから?という疑問についてでした。

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