ふぐが下関名物になったのはなぜ?チコちゃん
26年9月11日放送の「チコちゃんに叱られる」の問題『なぜふぐは下関名物?』の答えなどまとめてご紹介。ふぐ漁獲量が多くない山口県でなぜ名物に?その裏にはあの超有名人に関するまさかの理由が…
スポンサーリンクゲスト出演者
【ゲスト】生瀬勝久、山之内すず
【VTRゲスト】なし
なぜふぐは下関名物?
1問目の出題は、
なんでふぐは下関名物なの?
チコちゃんの答えは、
伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから
解説は下関ふく連盟理事の畑栄次さん。
日本近海で獲れるふぐは約70種類あり、その中で高級食材とされているのはとらふぐ、まふぐなどですが、ふぐには猛毒のテトロドトキシンがあるので、その処理には各都道府県が定める資格が必要。
このテトロドトキシンはボツリヌストキシンと並んで自然界最強クラスの毒性を持っていて、テトロドトキシンは青酸カリの約800倍ともいわれており、人間が摂取した場合は1mgでも死に至る恐れがあるほど。
そんな一筋縄ではいかない魚をどうして伊藤博文が食べることになったのか?その発端となった旅館・下関春帆楼は今でも営業を続ける老舗という事で実際に話を伺ってみると、山口出身の伊藤博文が贔屓にしていたのがこの宿で明治20年(1887年)に訪れた際にある事件が起きたとか…
スポンサーリンクという事でこの時起きた事件をテーマに担当ディレクター主演のミニ再現ドラマスタート。
時は明治20年の暮れ、山口への里帰りをしていた伊藤博文は定宿にしていた春帆楼を訪れて「魚が食べたい」とリクエスト。ところが運悪くこの日は海が大荒れで魚が仕入れられておらず、料理として提供できる魚が無いという最悪のタイミング。
これに対応した女将の藤野みちは他の選択肢が無かったために唯一この時に旅館にあった魚・ふぐを提供する事に。ただし当時のふぐは決して高級魚ではなかったという問題が。
そもそもふぐは縄文時代から食べられていたそうで、7500年以上前の島根県シコノ谷遺跡からはふぐの骨が出土していて実は日本におけるふぐ食の歴史はかなりの長さ。他にも平安時代の日本最古の薬物辞典「本草和名」にも布久(ふく)という名称で掲載されていたり。
そんなふぐでしたが安土桃山時代に豊臣秀吉が天下統一を果たした後、1592年に朝鮮出兵のために九州の佐賀に兵を集めた際、集まった武士の間でふぐ毒による中毒死が頻発するという事件が発生。この事態に怒り心頭の秀吉はすぐさま「河豚(ふぐ)食禁止令」を出し、この時に出されたふぐ食禁止は徳川政権に移った江戸時代まで維持されて、武家では当主がふぐ毒で亡くなると家禄(米や土地)が没収される厳しいペナルティが課されるほどだったとか。
そんな経緯もあって伊藤博文が旅館を訪れた明治20年当時もふぐ食は法律上禁止されている状態でしたが、ふぐは禁止された後も江戸初期の頃のレシピ本にふぐ料理が掲載されていたり、小林一茶が「五十にして 鰒(ふぐ)の味を 知る世哉(よかな)」とふぐに関する句を作ったりと、ふぐはかなり身近な存在だったようで法律に背く形でこっそり食べられていたふぐをまさか時の首相に提供するという決死の行動に出たのが女将の藤野みち。
スポンサーリンク出されたふぐに対して「この魚はなんだ?」と返したとされる伊藤博文ですが、流石にふぐ食を知らないはずがないので恐らく建前上知らないふりをしたのではないかと畑先生。
この時のふぐの味に改めて感銘を受けた伊藤博文は翌年の明治21年に当時の県令(現在の県知事)・原保太郎に働きかけを行って山口でのみふぐ食が解禁される事に。それから30年後に兵庫、53年後に大阪で解禁されている事を考えれば堂々とふぐが食べられる場所といえば山口という時代が30年も続いたことに。
伊藤博文のおかげでふぐの中心地となった山口の下関は目利きや加工技術を発展させて名物となり、全国各地から下関へふぐが集められるようになると南風泊市場はふぐの取扱量全国1位に。
ちなみに伊藤博文はふぐを食べたその後も春帆楼を贔屓し続けたそうで、日清戦争後の講和会議もこの旅館で実施して下関条約が結ばれたのもこの旅館という深い縁。
という事で1問目は以上。
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