戦国大名総選挙2020 史上最強の戦国武将ランキングベスト30の結果&本当に強い大名とは?
2020年12月28日放送のテレ朝系「国民・専門家・AIがガチで選ぶ 戦国大名総選挙」では国民投票1万4千票オーバー、歴史専門家、最新AIを総合して「史上最強の戦国武将ランキングベスト30」を発表。勝率、国力、財力(経済力)、権力、軍事力(兵力)などのデータから総合的能力を弾き出して、真の“強さ”の評価し「本当に強い大名」決定!果たして第1位の史上最強の戦国武将とは誰になるのか?
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目次
第30位~第26位
一国一城を治めた高名な戦国大名の数は一説によるとその数100人以上にも上るとか。
そんな戦国大名たちを武勇、知略、統率力、内政、外政、勝敗数などのデータから総合的な能力を分析し真の“強さ”順にランキング付けしようというこの企画。
リーダーシップ、時代の趨勢を読む力なども含めた総合力がランキングに反映されるという事ですね。
第30位~第27位までは放送では手短にダイジェスト処理。
第30位 毛利輝元
第29位 龍造寺隆信
第28位 柴田勝家
第27位 上杉景勝
第26位
第26位 加藤清正 肥後(熊本) 獲得ポイント 12400pt
現在の熊本県にあたる地域で52万石を治めたのが加藤清正。
熊本城の築城で有名な城作りの名人。
数々の仕掛けが施された難攻不落の熊本城は、
- 乱立する巨大な櫓
- 連続桝形構造
- 闇がり通路
と攻める側からすると悪夢でしかないような守りの堅さ。
第25位
第25位 今川義元 駿河(静岡) 獲得ポイント 12700pt
- 一般投票 29位
- 専門家投票 20位
- AI投票 31位
あの織田信長と激闘を繰り広げたことで知られる海道一の弓取り。
歴史家コメント「富国強兵策。つまり国を富ませて兵を強くするという当時屈指の戦国大名と。」
大河ドラマ、麒麟がくるで今川義元役を演じた片岡愛之助は、
「もうちょっと上でもいいんじゃないでしょうか?笑。でも25位でもありがたいです。今川義元って大体、白粉を塗ってお歯黒のイメージがあったんですけれども、実際は海道一の弓取りでございますから。文武両道で頭も切れて武力の方もあると、非常に力強い今川義元像でいきたいという事でお話を受けましてですね、私も楽しみながら務めさせていただきました。」
織田・武田・北条といった戦国時代屈指の大名たちに囲まれながらも堂々と渡り合ったその実力は紛れもなく本物。
現在の静岡県全域と愛知県東部を治めていた今川義元は戦で活躍したチーム(有力家臣+村人の組み合わせ)に褒美を与えるという策を講じて戦国屈指の2万5千の大兵団を作ったという実績があり、これは多くの大名たちから模倣されたマネジメントシステム。
第24位
第24位 浅井長政 北近江(滋賀) 獲得ポイント 13100pt
歴史家コメント「織田信長を追い詰めてそして泣かせた男だと思います。」
今の滋賀県、琵琶湖の北側を治めた浅井長政は信長の妹であるお市の方を娶り、信長と長政は義理の兄弟と言う間柄。
しかしその後対立した2人は戦う事に。
1570年の志賀の陣で長政軍は周囲を信長軍に囲まれて絶体絶命の状況に。
そんな窮地を救ったのが一向一揆の民衆。蜂起した民衆に背をとられる形となった信長軍は急転ピンチに。
有利な立場から一転して窮地に陥った信長は命からがら逃げだして当時一番の権力者だった朝廷に泣きついて戦を止めてもらったという逸話。
非常に珍しい、戦国大名自らが筆を執って民衆に対して出した手紙が残っている事から人心掌握術に長けた人物であったことが窺えますね。
第23位
第23位 前田利家 加賀(石川) 獲得ポイント 13200pt
歴史家コメント「戦国随一の槍の使い手。敵はその槍を見ただけで恐れおののいたものです。」
政治の中心地、京都にも近い要衝を任された前田利家は現在の石川県にあたる能登、賀川そして越中の三国を治めて秀吉から与えられた金沢城を中心に北陸で勢力拡大。
戦ばかりの時代には珍しく文化発展にも力を注ぎ、現在でも残る加賀百万石の礎を築いた功労者。
大河ドラマ、利家とまつで前田利家役を演じた唐沢寿明は、
「23位ってのが前田利家っぽくてイイですね。笑。あまりトップに入ってなくて。僕はドラマで演じさせていただきましたけども実直で真面目な豪快な男というイメージでしょうか。」
復元された前田利家の甲冑を見ると、背中の部分が盛り上がっているそうで、これは大きく発達した背中の筋肉を示す証と考えられているとか。6.3mの槍を使いこなしていたといわれる前田利家ならではのエピソードですね。
スポンサーリンク第22位
第22位 大谷吉継 越前敦賀(福井) 獲得ポイント 13800pt
歴史家コメント「目がほとんど見えない状態で、かつ最後まで戦い続けた戦の天才だったんです。」
大谷吉継が治めていたのは現在の福井県・越前敦賀。
関ケ原の戦いでは病による失明状態で石田三成率いる西軍の武将として出陣。
大河ドラマ、真田丸で大谷吉継役を演じた片岡愛之助は、
「22位?これも微妙な所じゃないですか?笑。でもすごく嬉しいです。大谷吉継といえば頭巾というイメージがございましてですね、私の頭巾を被りたいなと思っておりまして、頭巾の場面もございました。」
「病とも戦いながら生き抜いていくという感じだったんですけど、すごく男気があって理想的な武将で僕は大好きですね。」
トレードマークは白い頭巾ですが、これは若くして患ってしまった難病が原因でただれてしまった顔を隠すために着けていたものだそう。
そして目が見えない失明状態でも「ある特殊な能力」を発揮して戦場で活躍していたようで、
関ケ原の戦いでも当初布陣した陣から一切動く事無く、主に作戦指揮を担当したとされているとの事。
その際には目以外の「音」「振動」などを感じ取りながら頭の中で戦場を描き、味方を自由自在に動かしていた天才。
戦況の分析能力は超一流で、東軍総大将の徳川家康が最も警戒していたのがこの大谷吉継と言われているとか。
そんな家康も恐れた頭脳を駆使して、大谷軍1500人 vs 小早川軍1万5千という戦いでも大善戦。
確かに将棋、囲碁、チェスなどのブレインスポーツでは目隠しをしていても盤面を頭に浮かべつつ戦う事が出来る事を考えるとそんな境地に達していたのかもしれませんね。
第21位
第21位 井伊直政 遠江(静岡) 獲得ポイント 14300pt
- 一般投票 21位
- 専門家投票 23位
- AI投票 20位
歴史家コメント「徳川家康の四天王の一人で家康から最も愛され、最も出世した戦国大名です。」
「徳川家康から赤備えの鎧を預けられ、何百年と続く藩の藩祖となった人ですね。」
現在の滋賀県彦根市を治めた大名で城下町の整備を行い、彦根市の発展に尽力した大人物。
そして戦場では真っ赤な鎧を身に付けて「井伊の赤鬼」と恐れられた武勇にも長ける武人。
家康から贈られた孔雀の羽で作られた陣羽織には家康からの厚い信頼が見て取れますね。
家康から格別な寵愛を受けて15歳からスピード出世した直政は周囲から妬まれることも多かったようで、
その根底にはそもそもが三河の譜代(前からの家臣)の出身ではなかったという点もあったと専門家。
没落した家出身から家康から取り立ててもらった事で出世したという事実。
ところがこのネガティブな印象を払拭するべく直政は、
小牧・長久手の戦いにおいて単身で敵陣の真っ只中に突っ込むという愚策とも思える行動に。
結果、この鬼気迫る戦いぶりをもって周囲からも次第に認められるようになったとか。
第20位
第20位 石田三成 近江(滋賀) 獲得ポイント 14500pt
- 一般投票 11位
- 専門家投票 27位
- AI投票 33位
石田三成といえばやはり天下分け目の戦、関ケ原の戦いを抜きに語る事は出来ませんよね。
西軍総大将として8万の兵を率いて東軍総大将徳川家康と戦った三成が緻密な計算に基づく「先を読む力」に長けていたという専門家の意見。
15歳の時に秀吉によってその才能を見出された三成はその頭脳明晰な能力を遺憾なく発揮してとんとん拍子に出世して行きますが、そんな彼が唯一計算ミスをしたのが関ケ原の戦いのおける小早川秀秋の裏切り。
大河ドラマ、真田丸で石田三成役を演じた山本耕史は、
「戦に決して進んで出る武将では無かったと思うんですけども、戦を支える上でのお金の振り分けとか色んな配置の手配とか、そういうものに長けていた。つまりすごく頭が良かったという所が石田三成の特徴ですよね。」
三成の先見性には彼独自の情報網を支える特殊部隊の存在があったそうで、
賤ヶ岳の戦いでは合戦場周辺のお寺に諜報活動を依頼して、そこから有益な情報を得て敵方の奇襲を事前に察知するという情報戦の勝者として活躍。
最先端AI分析による、
「もし小早川秀秋の裏切りが無かったとしたら・・・」
石田三成8万4千 vs 徳川家康7万4千 の関ケ原の戦いの勝敗結果はどうなっていたか?を計算すると、
50.4%の確率で石田三成勝利
という結果に。
裏切りが無くてもほぼ五分の戦いだったというのは面白い結果ですよね。
第19位
第19位 藤堂高虎 伊代今治(愛媛) 獲得ポイント 15100pt
- 一般投票 31位
- 専門家投票 21位
- AI投票 12位
歴史家コメント「当時の最新技術を駆使して築城を行った名手です。」
「日本のお城を最終的に完成させた戦国大名と言えると思います。」
- 加藤清正
- 黒田官兵衛
- 藤堂高虎
という築城三名人の一角を占める天才。
江戸城・大坂城をはじめとした20以上のお城が彼の作品。
戦場での経験が豊富でそれに基づく、攻められた時に最強に守りやすい城が高虎のコンセプト。
日本三大水城で挙げられる
- 高松城
- 中津城
- 今治城
のうち高虎の生涯最高傑作と言われるのが愛媛県にある鉄壁の海城、今治城。
海の上に城を建てるというのは軟弱な地盤と戦いながら膨大な石垣(高さ13m)を積み上げて城を築くという意味でもありますが、
それを可能にしていたのが犬走り(石垣を築く土台)。
そこに木の杭を打ち込むという基礎工事を事前に行う事で高虎この問題を解決。
こうして築かれた今治城の堀の幅は最大幅70mで矢どころか鉄砲でも届かない絶対的な距離。
桝形に設計された鉄壁の城門(桝形虎口)は高虎が初めて作ったのではないかと言われている仕掛けでその後に全国のお城に広がっていく先駆けに。
家臣と言う意味では、主君を次々とかえていく変わり身の早さも特徴的。
スポンサーリンク第18位
ここは残念ながらダイジェスト処理。
第18位 小早川隆景 伊代(愛媛) 獲得ポイント 15400pt
毛利元就の三男が第18位にランクイン。
第17位
第17位 北条氏康 相模(神奈川) 獲得ポイント 15900pt
- 一般投票 30位
- 専門家投票 9位
- AI投票 21位
歴史家コメント「戦国大名というのは政治と軍事ですから、両方で優れていた。」
「上杉謙信、武田信玄と東国の三雄と言われた人物で、籠城戦の達人です。」
織田信長が活躍するより少し前の時代、今の関東一帯を治めていた大名が北条氏康。
特筆すべきなのは今でも残る小田原城を発展させて数々の勝利を演出した点。
氏康・氏政・氏直と三代に渡って完成させた小田原城はその守りの堅さが超一級品。
守りの要は土塁。
土塁とは敵の侵入を防ぐ土で出来た壁の事で石垣以前は多用された守りの基本構造。
その土塁が小田原城の遠く1.2kmの位置にも築かれていて、これは総構(そうがまえ)という大きな囲い。
その長さは全長約9kmという巨大さ。※孫の代の氏直の時代に完成
町全体を総構で囲う事で治安維持に役立てていたんですね。
そして大堀切(おおほりきり)の深さは12mと全国最大規模。
堀切とは敵の侵入を防ぐために山を掘って作られた大きな溝の事。
さらに障子堀という構造では堀が細かく区画に分けられ、堀に落ちた敵を逃さず討ち取れる鬼の設計。
そして攻めにもめっぽう強かった氏康ですが、
「戦国大名というのはしょっちゅう戦争してますけど、総力戦での決戦ってのはほとんどしない。被害が甚大になりますので。氏康は2回(決戦)を行っていて負けなかったと。」
少ない兵力で大群に打ち克つ知恵を駆使して、氏康が弄したのが鎧を脱いで夜討ちをするという奇策。
鎧の物音を消し、そして敵味方の区別がつきやすいこの作戦は見事にはまって大勝利。
第16位
第16位 蒲生氏郷 会津若松(福島) 獲得ポイント 16000pt
- 一般投票 32位
- 専門家投票 21位
- AI投票 8位
AIによる戦力データ分析では、
- 統率力 88
- 武力 89
- 知力 81
- 外政 79
- 内政 86
と総合力の高い結果に。
現在の福島県・会津を治めていた大名で今でも残る蒲生氏郷の居城、鶴ヶ城(会津若松城)。
そして今でも全国的に有名な会津の地場産業はほとんどが氏郷の時代に発展したもので、
会津若松という地名を名づけたのも氏郷その人。
その由来は故郷である滋賀県近江にある「若松の森」の若松と会津を組み合わせだったとか。
そんな氏郷を高く評価していたのが織田信長と豊臣秀吉でしたが、その理由は彼の戦上手な面が大きかったとか。
ナマズを模した長い兜を被って誰よりも最前線で活躍した氏郷はその活躍をもって家臣団のモチベーションアップを図っていたという逸話が残っている策略家でもあったり。
第15位
第15位 北条早雲(伊勢宗端) 相模(神奈川) 獲得ポイント 16300pt
歴史家コメント「現在確認できる日本で最初の戦国大名という風に言える存在ですね。」
「大名と村が直接的な関係を作るのが戦国大名の領国支配の仕組みなんですが、支配の仕組みが早雲で初めて確認できる。」
幕府の力が衰えた室町時代の終わり頃、僅かな兵を率いて国を攻めとり、支配した国の田畑に課税する「検地」を初めて行った大名が北条早雲。
たった一代で現在の神奈川県全域と、静岡県伊豆などを領地にした成り上がりで、その人物像は謎が多く伝説的なエピソードも数多いとか。
中でも元々他の権力者が住んでいた小田原城を意外な方法で城ごと乗っ取ったエピソードが残っていて、
牛1000頭に松明をつけさせて大軍に見せかけて敵を攻める(火牛の計)という奇想天外な策を打った北条早雲。
これに慌てた小田原城の兵たちその松明の明かりに恐れおののいて大混乱しその隙に城の乗っ取りに成功したとか。
これはあくまで軍記物の記述に残っているのみなので史実としてホントだったかどうかは不明。
それでも歴史家からも高い評価を受ける理由には自分が攻め取った土地の民衆を味方に付けるそのマネジメントスキルの高さがあるとか。
「伊豆を攻める過程において、当時地震による津波被害が伊豆各地で起きていたらしいんですね。その津波被害者のために伊豆を復興するという事を当時行っているわけですよね。」
第14位
第14位 立花宗茂 筑後(福岡) 獲得ポイント 16400pt
- 一般投票 22位
- 専門家投票 8位
- AI投票 28位
歴史家コメント「豊臣秀吉に『西国で最強』と言われている上に人間性まで素晴らしい。」
今の福岡県柳川市一帯を治めた戦国大名で当時、お城を守るために町中に張り巡らされたお堀はほぼ当時の形で今でも残っていて現在では観光名所に。
立花宗茂は秀吉に仕え、秀吉亡き後も徳川幕府の中枢で活躍した陰には「人望の厚さ」があったそうで、
「自分の利益の為だったら平気で人を裏切る。これが戦国時代。だけど宗茂は絶対に裏切らなかった。主君、仲間、さらには家臣に至るまで。関ケ原の時に戦った相手である徳川方からもその人間性を愛され高く評価されたんです。」
1597年の蔚山城の戦いの際には約5万の敵兵に囲まれて絶体絶命の窮地に立たされた加藤清正を救出すべく、
見捨てる覚悟を決める周囲の声に反して宗茂は清正の為に命を捨てる覚悟で決起。
自分の信念を貫いた宗茂は約1000という寡兵で約5万の大軍に対して先陣を切るという戦いに。
するとこの男気に奮起した他の大名たちも次第に呼応し見事に清正救出に成功。
さらに関ケ原の戦いでは敗戦の途に就く途中、14年前に戦死した父の敵である島津義弘に偶然出会った宗茂。
敵討ちをする絶好の機会にもかかわらず、宗茂は関ケ原で同じ西軍の将として戦った義弘に対して「仲間なので殺せない。」として撤退をサポートしたとか。
スポンサーリンク第13位
第13位 斎藤道三 美濃(岐阜) 獲得ポイント 16700pt
歴史家コメント「出世の異常さだと思いますね。まさにMr. 下剋上。そういう存在。」
「とても頭が切れて、信長に多大な影響を与えた大名です。」
今の岐阜県、美濃を治めていた斎藤道三ですが、
物流の拠点だったこの土地は「美濃を制するものは天下を制する」と謳われた地。
斎藤道三はその「なにがなんでも這い上がってやる」という強いハングリー精神の塊のような人物。
その成り上がり伝説を今風に説明すると、
- 父親のコネで大企業に就職
- 直属の課長を蹴落として出世
- 部長の椅子を奪い取って出世
- 社長に上り詰める
といった具合。
その出世術は、上司の悪いウワサを流すネガティブキャンペーンに始まり、暗殺・毒殺を陰で操り、その椅子を狙う大名を孤立させた挙句に引導を渡すという流石は「美濃のマムシ」と呼ばれた毒蝮ぶり。
ところが、風上にも置けないようなそんな悪徳の限りかと思いきや、国づくりではしっかりと功績を残していて、
まだ人の少なかった岐阜に観音様を持って来るという事業。
信仰の対象である寺を置く事で人を集めて経済を活性化させるという内政に手腕を発揮。
2019年には斎藤道三が作ったとされる石垣が発見されていて、敵の侵入を防ぐために石垣を築くという後のスタンダードになる防御構造を既に道三が先駆けていたのでは?という可能性も指摘されているとか。
第12位
第12位 明智光秀 丹波(京都) 獲得ポイント 17400pt
- 一般投票 8位
- 専門家投票 15位
- AI投票 29位
主君・織田信長を裏切った本能寺の変を起こした張本人が第12位にランクイン。
謀反者、天下の逆賊という汚名が先行しがちですが、
織田信長に絶賛された難攻不落の城を落とした光秀の頭脳プレーは特筆もので歴史家も、
「明智光秀は織田軍団の中で最強だと思うんですね。残念ながら最後は秀吉に討たれてしまいますが、それまではほとんど負けた記録が無いんですね。ただ戦が強かったというだけではなく、頭が非常に良いんですね。」
天下統一を目指す信長が中国地方に攻め込むにはまず京都・丹波地方を攻め落とすのが肝心。
しかし当時、この丹波には信長にとって強力な反発勢力が黒井城という要塞を作って立てこもるという状況。
小高い場所に築かれた黒井城は360°をぐるりと見渡せるので、すぐに敵の接近に気付く事が出来て、その守りは強固。
そこで光秀が思いついたアイディアはその利点を逆手に取って「360°を取り囲んであらゆる所から一気に攻める」という策。
隈なく取り囲んだことで相手側の戦意を喪失させて黒井城攻略。
その後、光秀の活躍もあって丹波攻略を成して信長は大喜び。
その結果、丹波地方29万石の領土を全て光秀に与えるという格別の引き立て。
その他にも本能寺の変では夜襲をかけるにあたって、敵味方の区別の付け方として「足元をよく見て斬れ。」という指示を出した光秀。
信長方は急襲を受けて混乱しているハズで、足元の装備は何も無く基本的に裸足で迎え撃ってくるハズであると考えた光秀のアイディア。
そして約50m先の的も射抜いたと言われるその精密な鉄砲術も光秀の特徴の一つ。
そもそも当時使われていた火縄銃の弾は現代的なライフルの弾とは違い精密射撃には全く向かない構造。
体のどこかに当たりさえすればいいというのが当時の鉄砲の考え方でしたが、そんな常識を打ち破る使い手だった光秀。
流石に50m先の的に次々と命中させていたという逸話は創作である可能性があるにせよ優れた鉄砲の使い手だったことは間違いない様子。
第11位
第11位 島津義弘 薩摩(鹿児島) 獲得ポイント 18100pt
- 一般投票 17位
- 専門家投票 6位
- AI投票 24位
歴史家コメント「戦国のスーパーサイヤ人こと戦闘民族の親玉。」
『活躍し過ぎたので敵兵から鬼と呼ばれるほどでした。」
現在の鹿児島県と宮崎県の一部で56万石を治めていた大名で秀吉が海外進出に目を向けた朝鮮出兵では、
泗川の戦いにおいて島津軍7000 vs 明・朝鮮連合軍20万で勝利を挙げたという伝説も残っているとの事。
その大名としての高評価ポイントは、
- 領土を守った800の城が誇る守備力
- 医術に精通して、人望も厚い
山城も含めて平地のお館全て合わせて800の城を南九州に所持していたという義弘。
この800の城のほとんどに信頼できる家臣を置いて北からの侵攻を防いでいたという大防御網。
これによって南九州を江戸時代まで統治した島津家。
中でも断崖絶壁の防御を誇る清色城、複合的な守りで敵を殲滅する知覧城などは強固な城。
いざ戦になると戦傷を受けた家臣を自らの手で応急処置していたという義弘。
「医学に精通しておりまして、今でいう外科手術を行えるスキルを持っていたと言われております。」「さらに自分の家臣に医学を伝授した記録が残っています。」
第10位
第10位 本多忠勝
- 一般投票 14位
- 専門家投票 10位
- AI投票 17位
歴史家コメント「とにかく強い。一対一で戦ったら間違いなく最強。」
現在の三重県・桑名市を治めていたのが本多忠勝。
AIによる戦力データでは、
- 統率力 84
- 武力 99
- 知力 78
- 外政 67
- 内政 59
という分析でその突出した武力が最大の評価ポイント。
スポンサーリンクその最強伝説は数多く、
1570年の姉川の戦いでは織田・家康連合軍 vs 朝倉・浅井連合軍に分かれて争い、忠勝は家康側。
大軍で迫る朝倉軍1万に対峙した徳川軍は5000と数の上で見劣りしていましたが、弱気な家康の一方で忠勝はたった一人で突撃を仕掛けるという大勝負に。
これに奮起したのは味方の兵士たち。家康も自身の懐刀を失うわけにはいかないと奮戦して勝利。
そして無類の強さを誇った忠勝は家康に最後まで忠誠を誓ったという主君想いの面もポイント。
第9位
第9位 真田昌幸 上田(長野) 獲得ポイント 21500pt
- 一般投票 7位
- 専門家投票 12位
- AI投票 9位
歴史家コメント「戦術家として無類の強さですね。敵に回すと一番厄介。戦いたくない相手ですよ。」
「戦いの術に優れて、領民の信頼を得て、領民と一体となって戦った大名。」
上田城を拠点に長野県上田地方を約17年間治めた昌幸は天下統一間近の上田合戦で徳川軍を2度に渡って撃破。
そのどちらもが圧倒的な兵力差で劣勢の中での勝利だったわけですが、
そのカギになったのが農民たちの協力。
首一つに対して百石を与えるという懸賞金制度と「シンプルな指示だけを与える」という分かりやすい指揮系統を導入した事で農民たちを上手く操って勝利を挙げたという昌幸。
戦ではアツアツのおかゆをぶっかける作戦、大声を出して相手を威嚇する作戦、手作り武器で戦わせる作戦と戦慣れしていない農民たちをいかに戦力として仕立て上げるか?という昌幸のアイディアに溢れたものがいくつも記録に残っていたり。
大河ドラマ、真田丸で真田昌幸を演じた草刈正雄はその人物像を飄々として軽い人物という表現。
重々しい雰囲気と言うよりもちょっと洒脱な感じで演じたとか。
第8位
第8位 黒田官兵衛 豊前(福岡) 獲得ポイント 21600pt
- 一般投票 13位
- 専門家投票 16位
- AI投票 2位
今の大分県中津一帯を治めた大名で豊臣秀吉の参謀として天下統一を支えた天才軍師。
その神髄は「戦わずして勝つ」。
「戦に勝つだけだったらすごい大名はいくらでもいるんですね。官兵衛のすごい所は味方の犠牲を最小限にして勝つという所なんです。その為に官兵衛は真っ向勝負をしないと、真正面から戦わないという戦術をとったんです。」
それがわかるエピソードが1577年の英賀合戦で繰り出した「ハッタリ大作戦」。
攻めて来る毛利軍5000に対して黒田軍は500という劣勢。
そこで官兵衛が部下に命じて集めさせたのが村人と大量の旗。
これを掲げさせて攻め寄る毛利軍に見せつける事で実態よりも遥かに多い軍勢に見せかけて撤退させたという奇策。
創作である可能性が高いお話ではありますが官兵衛の知略を誰もが認めていたという証拠でもあったり。
第7位
第7位 伊達政宗 獲得ポイント 22600pt
- 一般投票 2位
- 専門家投票 18位
- AI投票 7位
歴史家コメント「どんどん新しい物を取り入れていく、それを地域に還元する事で東北を大きく世間の人たちにアピールする事に繋がったんだろうなと思います。」
「三日月の前立てが非常にカッコイイと言われていますが、カッコイイではなくて、最先端の技術とかアイディアを取り入れて実用的で戦闘向きの甲冑を作りあげた。」
トレードマークのような三日月は実は簡単に取れるような設計になっていて、これは戦国時代の兜の前立てはほとんどそうなっていた共通した作り。
戦場で何か引っかかるという事は起こりうる話なのでそんなアクシデントでも対応できるように工夫がされていたんですね。
そして政宗の甲冑の胴は5つのパーツに細かくバラバラに分解できる構造。
さらに5つに分けたパーツを重ねる事が出来るというキャンプ道具で言うところのスタッキングも考えられているという工夫。
コンパクトにまとめて持ち運びしやすいというのは非常に実践重視の設計ですよね。
そして徳川家康が江戸幕府を開いた10年後には政宗は貿易の為に家臣を海外派遣するという事業に手を付けます。
この時に造られた船はスペインの造船技術がふんだんに使われた最新鋭の船。
第6位
第6位 徳川家康 江戸(東京) 獲得ポイント 23000pt
- 一般投票 4位
- 専門家投票 3位
- AI投票 18位
押しも押されぬ天下人のランキングが伸び悩んだ原因はAI分析。
- 二連木の戦い
- 三方ヶ原の戦い
- 野田城の戦い
- 高天神城の戦い
など武田家との戦いで多く敗戦を喫しているのがAI順位が低かった要因。
そんな家康の最大の強みはその「健康オタク」ぶりと番組では紹介。
健康維持のためにも剣術、馬術、水術(水泳)などで鍛錬してとにかく長く生きる事を心がけたというのはよく考えると異質。
数ある戦国大名の中でも医学・薬学の知識に秀でていて、その健康管理はオリジナルの薬を自分で調合するほどだったとか。
中国から伝わった薬剤の調合に関する文献を読み漁って勉強した家康はサプリメントマニアでもあったんですね。
家康は幼少の頃から胃腸が弱かったと伝わっているのでその点を自身でも自覚して健康維持に努めていたと。
さらに天下を取った後でも家康は好んで質素な食生活を実践し、麦飯、漬物、根菜のみそ汁、焼き魚などが家康の普段の食事内容。
家康が天下人となった1615年の大坂夏の陣は家康が亡くなる1年前の出来事。
まさに「どれだけ強くても死んだら終わり。長寿あってこそ。」成した天下統一だったわけですね。
スポンサーリンク第5位
第5位 毛利元就 安芸(広島) 獲得ポイント 24000pt
- 一般投票 9位
- 専門家投票 7位
- AI投票 3位
戦力データ分析では、
- 統率力 97
- 武力 78
- 知力 100
- 外政 88
- 内政 91
と毛利元就の計略の成功率の高さから戦略家・知将ぶりが傑出しているというAIの評価。
歴史家コメント「一代にして中国地方全体の覇者になって、最終段階においては一番天下に対して至近距離に行った人です。」
三本の矢の教えで有名な毛利元就は石見銀山を所有して圧倒的な財力も有し、さらには水軍(海賊)まで戦力にするほど大胆にして奇抜な戦略を誇った戦国大名。
そのきっかけとなったのが厳島の戦い。
中国地方で2万の兵力を持つ最大勢力、陶晴賢 vs 兵力3000の弱小領主出身の毛利元就の間で起こったこの戦。
「毛利の方に陶側がスパイを派遣したという事になってます。それをちゃんと毛利元就は理解していて、そのスパイにニセの情報を流すんですね。」
今攻められると一大事になるとウソの情報を掴ませることで陶軍をおびき寄せた所に元就が放った鬼策が、
水軍との挟み撃ち。
戦場が狭い厳島に誘い込んだ上に水軍に背を討たせるという計略で陶軍を一網打尽にした元就の大逆転劇。
第4位
第4位 上杉謙信 越後(新潟) 獲得ポイント 24600pt
- 一般投票 3位
- 専門家投票 4位
- AI投票 10位
戦力データ分析では、
- 統率力 98
- 武力 100
- 知力 83
- 外政 73
- 内政 61
とその突出した武力をAIが高評価。
幕府の権威が完全に失墜しつつあった時代に現在の新潟県付近を治めたのが上杉謙信。
手取川の戦いでは破竹の勢いだった織田信長軍を蹴散らし、戦国最強の呼び声高い武田信玄とは5度戦って決着がつかず。
その戦での無敵の強さから軍神と呼ばれたのも納得。
そして決して戦だけの人物だったわけではなく、商売上手で財力(経済力)も兼ね備えていたビジネスマンとしての顔を持っているのが謙信。
「戦国時代の大名は敵地から領土を奪って税収を増やす。あるいは敵地そのものを占領した時にそこから宝物庫を襲ったり。上杉謙信の場合はそういう事はせずに青苧(あおそ)という植物を京都や大阪と貿易して非常に大きな財源としたわけです。」
青苧は着物や布に使われる糸の原料で新潟の特産品。
その青苧を使った高級な着物が謙信のアイディアで大ヒット。
謙信は当時影響力が大きかった公家に青苧の着物を着てもらうという宣伝手法を使って流行を作り出すという大仕掛け。
公家を今でいうインフルエンサーとして利用するマーケティングを駆使して青苧の人気を高め、結果的に大きな利益を手にする事に。
第3位
第3位 豊臣秀吉 尾張(愛知) 獲得ポイント 25200pt
- 一般投票 6位
- 専門家投票 5位
- AI投票 4位
戦力データ分析では、
- 統率力 95
- 武力 80
- 知力 97
- 外政 92
- 内政 95
とやや武力が劣るものの知力に秀でて、さらに国づくりで強さを発揮したというAIによる評価。
大阪府がある関西地方約7年間治め、約10万の兵で全国にまで領土を広げた戦国大名。
農民から天下人になったその立身出世はあまりにも有名。
歴史家コメント「秀吉というのは金山とか銀山を直轄地にしているんですね。金銀などの財力を見せつける事で権威を示していたという事が分かりますね。経済を重視していたのが秀吉の特徴と思いますね。」
秀吉が「お米を売ったお金で金銀を買い集めておくこと」と指示した手紙が残っていて、これが他の大名と決定的に違う点。
米本位の戦国時代にあって金の重要性を把握していた秀吉は今でいう投資家的な面があった人物。
さらに相手の懐に潜りこむ天性の「人たらし」も秀吉の特徴の一つ。
特に家康を配下にした時の交渉術は逸品。
1586年、豊臣秀吉が天下統一目前に迫ったこの時、残すは家康を味方にするだけと考えた秀吉は、
妹を家康の正室にするなどして手はずが整い、いよいよ家康は秀吉の配下になるべく大坂へ。
そのまま座して待っていればよいものの、この時秀吉は家康の居をアポなし訪問。
部下も一切伴わず、単身で家康のもとを突撃訪問した秀吉は「大坂城での儀式ではオーバーなぐらいに丁寧に振る舞って礼を示して欲しい。」というリクエスト。
しょせん成り上がり者の自分は周囲からの理解を得られにくいので、家康のような人物が太鼓判を押してくれることでやっと多くの人に認められるハズという秀吉の知恵。
これを言われた家康も悪い気はしないという秀吉の人心掌握術。
スポンサーリンク第2位
第2位 武田信玄 甲斐(山梨) 獲得ポイント 26500pt
- 一般投票 5位
- 専門家投票 1位
- AI投票 6位
今の山梨県を中心とした中部地方を広く治めていた武田信玄。
武田信玄の居城である躑躅ヶ崎館から一生動く事無く町づくりにも尽力。
戦国最強と謳われた武田騎馬隊を作り上げ、織田信長や徳川家康を追い詰めるも、戦の最中に病死した事で惜しくも天下に届かなかった悲運の戦国大名。
その強さの秘密は家臣団の盤石の結束力。
「軍事力で圧倒的に強い武将というイメージですが、信玄の強さの本当の秘密は家臣のハートをがっちり掴む人心掌握術なんです。」
褒美は通常、領地や金銀を与えるのが多かった所、信玄は自分の大切にしていた刀や兜などを与える事で、お金では量れない心の結び付きを重視したり。
そして戦場に医者を帯同させるという当時としては非常に珍しい施策も。
当時の戦いは少人数がメインだったので医者を連れて行く大名は皆無だったところ、信玄は家臣の事を思ってこんな試みに。
この結果、家臣たちからの厚い信頼を獲得する事に。
また、合議制をとって家臣たちと会議をしていたというのも特徴的。
スパイがどこに潜んでいるか分からない時代にあえて話し合いによって物事を進めるというのは無謀な気もしますが、これが逆に家臣団の結束を強める事に。
信玄のこの、武田軍に裏切者など絶対にいないという熱意が家臣団にもしっかり伝わり、お館様への絶対的な信頼につながっていたんですね。
第1位
第24位 織田信長 尾張(愛知) 獲得ポイント 29500pt
- 一般投票 1位
- 専門家投票 2位
- AI投票 1位
一般部門、AI部門の2冠に加えて、専門家からの支持も第2位と圧倒的な得票。
愛知県の西部を治めていた織田信長はおよそ20年で日本の中心部を制圧。
天下統一まであと一歩という所で1582年の本能寺の変でその夢は潰える事に。
誰でも自由に商売が出来る楽市・楽座を取り入れて経済発展にも尽力。
外国との取引である南蛮貿易も積極的に行い、日本初の天守を持つ安土城の築城など斬新な政策にも手腕を発揮。
「信長は新しく斬新なことをやってきたわけなんですけど、非常にカリスマ性があってリーダーシップにも長けている。そういう方ですね。」
「どんな手段を使っても、むしろアイディアを駆使して勝つことに、彼は戦いの美学みたいなものを感じていたのでは?」
その織田信長の美学を象徴するのが、
1560年の桶狭間で今川義元を打ち破ったあの桶狭間の戦い。
これまでの通説では大軍の今川義元を相手にして奇襲作戦を弄して勝利したとされていましたが、
最新の研究では「見殺し作戦」が勝利の決め手になったのでは?と言われているとか。
決戦当日、信長は数人の家臣と共にとある場所へ。それが善照寺砦。
そこは味方の砦が見渡せる場所でしたが、そこで味方の2つの砦が攻められて火の手が上がる光景をただ遠くから見ているだけという信長の行動。
今川の大軍の大半は砦を攻める為に集結しているため、義元が控える本陣は守りが手薄になっているに違いないと確信した信長は一気に敵本陣目がけて総攻撃に。
本陣と砦との距離が約3kmと離れていて、異変を察知した敵が本陣の守りをかために戻って来れない事を計算に入れた完璧な作戦。
砦を守るのがこの時代の常だったのに対して、あえて砦を見捨てるという大胆な策で今川軍を見事に分断してみせた信長。
仲間を見捨てる冷酷な面と冷静に敵陣を突く用意周到さというまさに織田信長の生き方そのものを体現したような戦いが桶狭間だったというわけですね。
やはり大本命が史上最強の戦国大名に輝いたわけですが、三英傑の中で徳川家康のランキングが第6位に甘んじたというのがサプライズだったでしょうか。
以上、国民・専門家・AIがガチで選ぶ 戦国大名総選挙より史上最強の戦国武将ランキングトップ30についてでした。