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謎解き伝説のミステリー 徳川家の12の謎が分かる神社仏閣&答え一覧


23年12月6日「謎解き!伝説のミステリー 徳川家の謎がわかる12の神社仏閣SP」で紹介された寺社仏閣&建物や12の謎と答えを一覧でまとめてご紹介。

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大坂冬の陣・夏の陣

「東の徳川・西の豊臣 幻の連立政権 家康は天下統一するつもりがなかった!?」

歴史スポット:京都・二条城

家康が将軍就任の儀式に伴って築城された城で幕府終焉となる大政奉還の舞台としても知られる二条城。

そもそも家康には東は徳川が治め、西は豊臣が治めるという連立政権の構想があったとされていて、それが分かるのが家康&豊臣秀頼によるトップ会談のいわゆる「二条城会見」のエピソード。

通説では「家康が豊臣秀頼を呼び出して服従を迫った」とされているものの最新の説では否定されてきているとか。

研究者の笠谷先生の推測では二条城 二の丸御殿にある勅使の間が会談場所なのでは?とされていて、

徳川家の歴史書である当代記には「家康が庭まで行って秀頼をお出迎えして、秀頼は庭から中へ(=家康は玄関から中へ)」という記述。

家康が庭から秀頼を招き入れた意図は「庭から入る=屋敷の主よりも上の立場」を示す格式高い礼法によるもので秀頼を立てて最上級のおもてなし(VIP待遇)で持って迎え入れたという意味に。

また、会談の席について家康は同等の立場を示すために互いに上座に座る提案をしたのに対し、秀頼はそれを固辞して家康を上座に残して自ら下座に降りて行ったというエピソード。

つまり秀頼の方から家康に主導権を譲ったという行動は「家康が無理やり服従を迫った」という通説とは異なった印象。

結局家康は豊臣家を滅ぼす決断を下すことになりますが、それは家康がこの世を去った後の世に豊臣方の大名たちが徳川家に牙を剥いて再び戦乱の世が来てしまうのでは?と危惧したからとされていて、そこで連立政権の構想は諦めて大坂の陣を決断する事に。

島原の乱(島原・天草一揆)

「幕府に激震 歴史を変えた農民一揆をどうやって鎮めたのか?」

歴史スポット:原城跡、有馬キリシタン遺産記念館

かつては苛烈なキリスト教徒に対する弾圧へ反発して起こったとされていた島原の乱ですが、現在では農民一揆の一種と考えられていて厳しい年貢の取り立てといった圧政に耐えかねて農民の不満が爆発した結果起きたと解釈されているのが現状。

こうして巻き起こった大きな反乱は幕府軍が12万人以上を動員してもなかなか鎮めるには至らず、そのままズルズルと長期戦になると日本各地に飛び火すると危惧した徳川家光は幕府一の切れ者だった老中・松平信綱を派遣。

ポルトガルからの支援を信じて籠城戦を耐えていた反乱側でしたが、そこで信綱がとった策が海上のオランダ船からの砲撃。

援軍の望みを絶つためにオランダ船に攻撃要請を出した信綱の心理戦や兵糧攻めなどの策によって反乱は4か月で鎮圧。

ここで江戸幕府が学んだ教訓は「怒った民衆は怖い」という事で、幕府が本格的に戦乱の世を脱して平和な統治に舵を切るきっかけになったと考えられると磯田先生の解説。

明暦の大火

「江戸を襲った大火事 幕府が築いた都市の仕組みとは?」

歴史スポット:回向院、上野広小路

徳川家綱の時代に起こった明暦の大火は日本史上最大級の大火事といわれていて三日間燃え続けた大火災で町の6割が焼失し死者は約10万人(諸説あり)という推計。

回向院は明暦の大火で亡くなった人の供養のために幕府が建立され、その後は町が復興していくわけですがそこで重要になるのが徳川家綱の補佐役だった保科正之という人物。

当時は迫る火の手から逃げようとしても隅田川を渡る手段が限られていてこれが多くの被害者を出す要因の一つに。

防衛上の観点から敵に攻め込まれにくい構造だった江戸の町から防災都市へ変貌する礎として造られたのが両国橋で避難経路としても使えるように配慮。

また、それまでの城下町では敵が攻め入りにくい入り組んだ町並みでわざと狭くしたような道が多いのが一般的でしたが、家屋の密集は延焼のリスクが高くなり、かつ狭い道では避難にも時間がかかるという難点。

そこで設けられたのが「広小路・火除地(ひよけち)」と呼ばれる緩衝地帯で火が燃え広がるのを防ぐために作られる広い道や空き地の事。

こういった政策を実行するために保科正之は焼け落ちた江戸城の天守閣再建を後回しにして、町の復興を優先させるという決断も。

ちなみに保科正之は2代将軍・徳川秀忠の妾(死後に側室の扱い)の子という出自で秀忠の本妻だったお江に幼少期に暗殺されかけるという不運も。

お江の伯父にあたる織田信長がそもそも造った天守閣を忌み嫌っていたので保科正之は再建を渋ったのでは?という逸話も。

赤穂事件(忠臣蔵)

「忠臣蔵の真相 幕府が命じた切腹に隠された狙いとは?」

歴史スポット:泉岳寺

当時の法でいえば集団での討ち入りは大犯罪で幕府の権威を傷つける大問題。ところが幕府は討ち入りに参加した武士たちの名誉を守ったのでは?と解釈できる処断を下したという謎。

証拠に挙げられるのは、

  • 家康のお寺にお墓
  • 切腹に使った名刀

の2点。

【泉岳寺】

もともと泉岳寺には事件の発端となって切腹を命じられた赤穂浪士たちの主君となる浅野内匠頭のお墓がありましたが、討ち入り後にこの世を去った47名のお墓も同じ泉岳寺に葬られる事に。

泉岳寺を建てたのは家康であり、そんな幕府の超大物ゆかりの泉岳寺にお墓を建てるのをOKしたというのはその当時の幕府トップの判断なのでは?という推測。

となると当時の将軍だった徳川綱吉がキーパーソンに。

生類憐みの令で有名な綱吉は変人のような扱いを受ける事が多いですが、近年の研究では徳川15代でもトップの見識を備えていたとされて来ていて、生類憐みの令も動物・捨て子・高齢者などの命を大切にしなさいという現代的な感覚であれば当然ともいえる法令であって、さらには現代においてもなおも課題の多い女性の権利を高めるという功績もあったとか。

前代未聞の集団襲撃事件の処遇を巡っては幕府内で意見の対立があったようで、

  • 老中(当時の最高役職)評議会 → 武士道に反する野盗のような行いで「斬首」
  • 儒学者・林鳳岡 → 亡き主君への忠義を罰すれば忠孝の意義を失いかねないので「助命」
  • 儒学者・荻生徂徠 → 罪は罪として罰すべきだが主君への忠義は情状酌量の余地ありで「切腹」

意見がここまで割れると判断するのは国のトップしかいないわけで結果はご存じの通り「切腹」に。

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【切腹の配慮】

切腹現場に居合わせた武士が直後に描いた絵が残っていて、事件のリーダーである大石内蔵助の隣に描かれた介錯人を務めたのが安場一平という人物。

さらに介錯に使われたとされる刀も現存していて使用後は全く使われずにそのままの状態で保管されているとか。

この刀は備前長船の銘が打ってあり、当時の日本刀における超一流ブランド。

罪人の首を落とすのに名刀は使われないという事を考えると武士への敬意が現れているという事に。

さらに大石は暖房器具の火鉢を使うのを特別に許されていたそうで、これも十分な配慮がうかがえる証拠の一つ。

綱吉は武士の法律「武家諸法度」の第一条を修正して「武芸に励め」という部分を「忠誠心や孝行の気持ちを持って礼儀を正せ」と変更しており、

討ち入りは平和を乱す犯罪で許されざるものではあるものの、忠義の心が元になっているので武士の名誉を守るという判断に至ったのかも?という推測。

「赤穂事件の前日に書かれた手紙 なぜ討ち入りは成功した?」

赤穂事件は討ち入りの準備に1年以上をかけた長期プランで、さらに警備が厳重なはずの江戸の町を舞台に起こった事件。

実際に大石は幕府のスパイに見張られているのを承知していたようで、討ち入りの前日にお世話になったお寺に宛てて大石が書いた手紙には「幕閣も承知しているはずが何の干渉もなく、討ち入りを阻止しようとする動きもないので見てみぬふりをしてくれるはず」という文章が。

赤穂浪士47名のうち16名は江戸城から目と鼻の先にある麹町に潜伏していて、そんな危なっかしい連中が江戸の町に留まるのを許していたという事はもはや幕府が陰ながらサポートしているのに等しい行為。

さらに幕府は討ち入りの被害者となる吉良上野介の屋敷を警備が厳しい江戸城のすぐそばから警備が手薄な両国に移転させるという命令も。

スタジオゲストの高橋英樹は綱吉の側近だった柳沢吉保が画策して、ちょうど武士の存在感が薄まっていた時代にあって武士の地位向上のために大きな事件でもって世間に武士の存在感を知らしめるという狙いがあったのでは?という推理。

絵島・生島事件

「江戸最大のスキャンダルの真相 吉宗が決断した大奥リストラの狙いとは?」

歴史スポット:伊那市高遠町 蓮華寺、歴史博物館内の絵島囲み屋敷

絵島・生島事件を引き起こした張本人である絵島のお墓があるのが蓮華寺で周囲に囲いがある立派な作り。

当時1000人(最盛期で3000人とも)ほどが勤めていたとされる大奥の中でトップの実力者だったといわれる絵島。

ある日、先代のお墓参りの為に街へ出た際に当時江戸で大人気だった歌舞伎役者の生島新五郎を観に芝居小屋へ。

そこで絵島は芝居終わりの生島を誘って宴会を催すという大胆な行動に。

当時の大奥では厳しく生活も管理され、門限も厳密に決められていたのに絵島はそのルールを破ってしまう事に。

これが大問題に発展し絵島・生島の両人はもちろん、芝居小屋の関係者約1500人も処罰されるという大スキャンダルに発展。

絵島は7代将軍・徳川家継の母親に仕えるほど地位の高い人物でしたがこの事件をきっかけに江戸から遠く離れた高遠の地へ流される処罰。

一度解体後に復元された絵島の生活拠点(通称・絵島囲み屋敷)を見てみると今でいう有刺鉄線が張り巡らされた塀に囲まれて、家屋の開口部には格子がきっちりはめられ、さらには監視役付き、トイレ付の個室には外鍵と牢屋のような状態。

実は大奥の門限破りや外部の人間との男女関係はそんなに珍しい事でもなかったという説もあって、大奥の女性と役者が遊ぶのはよくある話で門限破りも暗黙の了解として許される事がほとんどだったとも。

当時幕府内では7代将軍・家継の腹心や母を中心とした側近たち(絵島も含まれる) vs 反発する役人たちという二大派閥があり、

その陰謀に巻き込まれる形でちょっとした粗相を大きく荒立てられて絵島が厳しく処罰されたのでは?というお話も。

【吉宗の大奥リストラ】

徳川将軍は世襲制で世継ぎを作るために側室を置く必要があるわけで、となると側室一人一人に個別のお世話係が就くのでかなりの大所帯。

上級の女中ともなると現代の価値に換算して年収2000万円クラスの高給取りだったそうで、大奥全体にかかる経費は実に幕府予算の4分の1という規模。

閉鎖的な大奥での楽しみといえば着物で着飾ったり、お菓子でストレス発散したりというファッション&グルメぐらいしかなかったので、ここに多くのお金が使われていたとか。

当時の幕府は財政難に苦しんでおり、その一つの要因が大奥の維持費。

そこで8代将軍・徳川吉宗は大奥のリストラを言い渡したという経緯。

目安箱

「目安箱に隠された鍵 吉宗はどうやって民衆の声を直接聞いた?」

歴史スポット:徳川林政史研究所

税金を引き上げたり、贅沢を禁止したりと財政難に苦しむ幕府の立て直しに奔走した吉宗。

なかなか厳しい要求に対して庶民が従った要因の一つとされるのが目安箱の存在。

研究所には目安箱に投書された訴状を簡潔にまとめた訴状留が残されていて、近年解読が進んでいる状況との事。

そもそも庶民が読み書きが普通に出来る事自体も世界的に見て先進的、かつ幕府に対して意見書を書けるというのも先鋭的なこのシステム。

訴状の内容は例えば、

  • もともと足利家家臣で今は農民をしていて、将軍の御成道に杉を植えたので武士として取り立てて欲しい
  • 旅館の主人の訴えで、仲居さんがいなくて人手不足に陥ったせいで客が来なくなったので何とかして欲しい
  • 彫刻職人の訴えで、下手な素人の職人が安く仕事を請け負ってしまうのでコチラの売り上げが減って困っている

などなど。

中には訴状から発展して制度として定着したものもあって、ある浪人が提案した防火のために瓦屋根を広めたらどうか?というアイデアをもとに町火消の制度が生まれ、現代の消防団にもつながっているというお話も。

この訴状は基本的に吉宗にしか読めない工夫がされていたそうで、それが吉宗がいつも持ち歩いていたという目安箱用の鍵。

目安箱は鍵がかかった状態で吉宗のもとへ届けられて、吉宗自身が鍵を開けて訴状を吟味していたそうで、多い時で年100通届く訴状を丁寧に読んでいたとか。

こういった庶民の声を直接聞く努力をしていたので厳しい政策に対しても庶民は従っていたというエピソード。

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享保の飢饉

「江戸を襲った大飢饉の謎 吉宗はどうやって飢えに苦しむ民を救った?」

歴史スポット:浅草寺

何とか財政を立て直した吉宗を襲ったのが害虫の大量発生によって生じた深刻なお米不足。

200万人が飢えに苦しみ、1万2千人が亡くなる非常事態。

そこで吉宗はお米の代わりにサツマイモを関東近郊で作ることでこの飢饉を乗り越える策に打って出る事に。

江戸時代から明治中期までに川越を起点とした隅田川ルートを通って浅草にサツマイモが運ばれ、最盛期には浅草に80軒も芋問屋が建ち並んでいたほどの流通拠点に。

こういった由縁から浅草寺周辺にはサツマイモを扱ったお店が多く見られるといった名残に。

その後には天明の飢饉、天保の飢饉と何度か米不足に襲われた江戸の町でしたが、吉宗のサツマイモ生産体制の強化などによって被害は徐々に減っていく傾向にあったとか。

露寇事件

「ロシア襲撃事件 200年前の日記に記された事実とは?」

歴史スポット:岩手県立博物館、岩手県宮古市 華厳院

幕府が開国に踏み切ったきっかけになった事件といえばペリーの黒船来航が真っ先に浮かびますが、実はそれよりも50年前にも大事件が。

時は1792年。

突如として北海道にロシア使節団が来航して徳川幕府に対して貿易の交渉を要求。

この時幕府側は長崎への入港許可証を出して「交渉は長崎で。」と返答。

そこから12年後の1804年、ロシア使節団が長崎に来航して貿易の交渉に再度やってきますが、そこでの幕府の回答は「中国、オランダ以外の国とは貿易はしない」という答え。

12年越しの約束を反故にされたと感じたロシア側は当時幕府の警備施設があった樺太南部や択捉島を報復のために襲撃・略奪する暴挙に。

近年の研究ではこれが日本のターニングポイントと注目されているそうで、あまり教科書でも扱われないにも関わらずかなり重要な出来事。

そこで重要人物になってくるのが襲撃事件の際にロシアの捕虜になった大村治五平という人物でそのお墓は華厳院に。

南部藩の砲術家として択捉の地に派遣されて警護の任務に就いていた彼が残した日記「私残記」には襲撃の詳細について当事者の目で記録に残されていて史料として大きな価値。

最終的にこの「露寇事件」は本格的な争いになる前に収束しますが、時の12代将軍・徳川家斉は大変なショックを受ける事に。

この頃の江戸幕府は大坂の陣、島原の乱と経験してから200年ほどまともな戦が無い平和な世の中が続いていたいわゆる平和ボケ状態。

もはや実戦経験のある人はほぼいない状態で突然外国に攻められるという大事件が起きた事で一気に国防意識が高まる事に。

これをきっかけにして海外に目を向けた研究機関が幕府内に作られ、これがあったからこそペリー来航でも慌てふためくことなく冷静に対応したという経緯。

天保の改革

「江戸の治安を守った町奉行システム 歌舞伎を救ったのは遠山の金さんだった?」

歴史スポット:本妙寺、明治大学博物館

19世紀前半のイギリスでは蒸気機関車での鉄道が実用化されたり、音楽界ではベートーヴェンやショパンが活躍するという時代。

その頃の江戸では歌舞伎が大人気で江戸庶民の娯楽として大変な賑わい。

ところが1840年頃、歌舞伎は一度絶滅の危機に瀕していてそれを救った人物こそが何を隠そう遠山の金さんで知られる遠山金四郎景元。

本妙寺には遠山の金さんのお墓が残っているそうですが、そもそも金さんの職業・町奉行は現在でいう所の「裁判官、東京都知事、警視総監、消防総監」を兼ねるという超重要ポスト。

金さんは南北に設けられた二つの奉行所のうちの1つである北町奉行所のトップで同心(今でいう警察官)を束ねるトップ2の一角。

そしてこの時代に起きた大事件といえば大坂で起こった大塩平八郎の乱。

当時の幕府は財政難の解決策として華美な服装、贅沢な食事、宝くじ、高価な櫛、女性の髪結などを厳しく取り締まろうとしていて、その一環として派手な歌舞伎もNGという流れだったようで、

大凶作の影響で民衆の不満が大爆発して大坂の治安を乱すというこの事件を教訓にして、江戸庶民のストレス発散の娯楽として歌舞伎は残すべきと金さんは幕府に提言。

天保の改革で歌舞伎も厳しく制限されたものの完全に廃絶される寸前を救ったのは金さんのお陰とも。

日米修好通商条約

「徳川家倉庫に眠る銀印 なぜ日本は植民地にならなかったのか?」

歴史スポット:雑司ヶ谷霊園

その銀印というのが経文緯武(けいぶんいぶ)の事で、

これは簡単に言うと幕府の認印の事で主に外国向けに使われていたものとなるとこれが使われた場面として真っ先に浮かぶのが日米修好通商条約。

日米修好通商条約は日本とアメリカが貿易を開始するために結んだ条約の事で教科書的には「不平等条約」で日本に不利なものとされているのが普通。

ところがヨーロッパ諸国がこぞって海外の植民地化を進めていた1850年頃という時代背景を考えると、なぜ日本は植民地化されなかったのか?という点も謎。

例えば日米修好通商条約が不平等とされる理由として挙げられるのが外国人犯罪を裁けない、関税自主権が無いといった点ですが、

治外法権だったのは一部の外国人街に限られていて、関税についてもこの8年後に税率が5%に変更されたことで不平等が加速していくことになりますが、締結当時の税率は欧米諸国の取引と同レベルの20%程度に設定されていて必ずしも不平等とは言えない内容だったとか。

この条約が結ばれる交渉のテーブルに着いたのはアメリカ側のベテラン外交官・ハリスと日本側は若手の役人・岩瀬忠震(ただなり)。

今は雑司ヶ谷霊園に眠る岩瀬忠震が日本の植民地化を防いだ立役者だそうで、ハリスの回想によると岩瀬は頭の回転が非常に速い人物でアメリカ側の要求をことごとく論破し、その結果条約の草案は何度も書き直される事態になったとか。

特に大きな争点になったのがどの港を開港するのか?という点で、日本側としては田舎の横浜をむしろ積極的に開港して発展を促したいという思惑で、これに対してアメリカ側は江戸城にほど近い品川の港を狙っていたとの事。

そこで岩瀬は横浜プランを隠しながら下田を開港したいと提案を出し、品川を開港しろと要求するアメリカとの折衷案として「じゃあ下田よりも品川に近い横浜では?」と巧みな交渉術を展開してアメリカ側の顔も立てつつ日本側に有利な条件を引き出すことに成功。

さらに日米修好通商条約ではアヘンは日本に持ち込み厳禁、日本とヨーロッパの間で起きた問題はアメリカが仲裁するといった日本に対して有利な条項も引き出したりと岩瀬は奮闘。

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大政奉還

「処刑を免れた慶喜の2つの戦略 大政奉還に隠された本当の狙いとは?」

歴史スポット:寛永寺

徳川家の菩提寺で6人の将軍が眠る寛永寺に保管されているのは日本に3着しか残っていない徳川慶喜の陣羽織。

葵の紋が赤色に染められるという珍しい趣向で、赤は血の色なので紋に使われるケースはあまり無いのにも関わらず赤色になっている理由はフランス皇帝のナポレオン3世からの贈り物で金糸を使うという凝ったデザインだったから。

他に慶喜はイギリスの新聞にも大人物として記事が載ったりと外国との関係を非常に重視した人物であり、これが徳川家が滅ぼされなかった謎の鍵になるとか。

徳川最後の将軍となった徳川慶喜は大政奉還によって江戸幕府を終わらせてしまった残念な印象が強いですが、近年の研究では優れた戦略家で江戸時代の文献には「慶喜は家康の生まれ変わりである」と表現しているほどの大物で討幕派からすると大きな障壁。

当時の幕府を倒そうとする討幕派の中心人物は薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の桂小五郎で討幕派の勢いが増すと慶喜は一転して処刑の可能性すら高まるというピンチに。

当時の徳川慶喜 vs 討幕派の争いとしては、

  • 兵庫開港問題
  • 大政奉還

が2つの大きなトピックで、

日米修好通商条約によって開港を約束した5つの港のうちで京都に最も近い兵庫港は10年経っても朝廷が開港を認めない頑固な姿勢を見せ、幕府としては対応に苦慮。

これには薩長の思惑があって、条約で締結したはずの兵庫港がなかなか開かれない事によって外国と幕府の関係性が悪化するのを狙って、もともと兵庫の開港に反対していた朝廷を後押ししていたという裏。

窮地に追い込まれた慶喜は開港期限まであと半年と迫ったタイミングで京都御所に開港反対派を集めて夜が明けるまで延々と議論。

そこで根負けした朝廷と薩長側は兵庫開港にOKを出さざるを得ない状態に。

こうした手練れの慶喜に対して手を焼いた討幕派は大政奉還を渋るであろう慶喜を朝廷の敵に仕立て上げて武力によって無理やり攻め滅ぼすという強硬策も現実味を帯びてきますが、

その動きを察知した慶喜は大政奉還にOKを出すという起死回生の一手。

大政奉還があった旧暦の10月14日のちょうどその日には朝廷から薩長に対して討幕の許しが出されていて、まさに危機一髪のタイミング。

朝廷の敵として幕府を倒そうにも、その幕府が既に朝廷に政権を返すという事をやっちゃっているので敵が忽然と消えてしまったという魔法のような一手。

さらにそれまでの長い江戸幕府の歴史から考えるといきなり大政奉還で政権を返されても朝廷としては手に余るだけで、さらに外国との関係も良好だった慶喜を軽んずるわけにもいかないという状況で、そうなると朝廷からは「徳川が中心となってやれ」と命令が出るのが自然な流れ。

そこで慶喜は外交で培った知識を使って西欧で取り入れられていた議会制度を導入しようと画策したりと政権を返した後も政治の中心として新しい国作りを目指すという行動に。

大政奉還から3か月経つと討幕派はとうとう強引な武力討伐に頼ることになり、1868年1月27日に旧幕府軍vs討幕派の戊辰戦争が勃発。

ところがこの場面で慶喜は好戦的な態度を見せず、泥沼の戦争を回避して日本国内が疲弊したこの隙を逃すまいと海外からの侵略の手が伸びるのを危惧して内乱は早急に終わらせたいという思惑が。

日本の分裂を避けて平和を回復する事に尽力した慶喜は1868年5月3日に江戸城を新政府軍に引き渡して徳川幕府の歴史は終焉。

討幕派の中には徳川家を徹底的に滅ぼすべきという声もあったにもかかわらずその処断は見送られる事に。

その理由の一つが外国勢力による慶喜助命のプレッシャーにあったとも。

伏見城への参勤

「伏見城への参勤とは?」

歴史スポット:伏見城、海宝寺

謎を解くキーワードとして最後に出てきたのが「伏見城への参勤」という言葉。

3代将軍・徳川家光の時代に作られた参勤交代は全国の大名が1年おきに江戸へ挨拶に赴く制度でしたが、この参勤交代の原型になったとされているのが家康の時代にすでに始まっていた「伏見参勤」である事が近年の研究で判明。

豊臣秀吉が造り、後に家康が政治を行った伏見城のある京都・伏見区には「毛利長門」「正(政)宗」「島津」など大名の名前が町名に使われているケースがちらほら。

これは全国の大名の居留地がそこにあった事を示す証拠で、秀吉の死後8年余りの1598年~1606年頃まで1年の半分以上を伏見城で過ごしていたという家康。

伏見城に挨拶に来させる参勤のシステムは秀吉の時代から始まっていて家康も同じことを導入。

この参勤によって大名がお金を使う事で経済が回って町が発展し、日本が豊かになると平和が築かれていったというお話で締めくくり。

以上、謎解き!伝説のミステリー 徳川家の謎のまとめでした。

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