源頼朝は「の」を付けるのに織田の信長と言わないのはなぜ?姓と名字の違いは?チコちゃん
26年6月5日放送の「チコちゃんに叱られる」の問題『源頼朝は「の」を付けるのに織田の信長と言わないのはなぜ?』の答えなどまとめてご紹介。
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【ゲスト】藤井隆、高城れに
【VTRゲスト】なし
源頼朝は「の」を付けるのに織田の信長と言わないのはなぜ?
2問目の出題は、
なんで源頼朝は「の」を付けるのに織田の信長と言わないの?
チコちゃんの答えは、
源は名字じゃないから
解説は名字研究家の森岡浩さん。
源というのは名字ではなく姓というのが正しい認識で、今となっては名字=姓として扱われていますが本来これらは別物。
ちなみに中学の歴史教科書で最初に登場する日本人と呼べる人物は卑弥呼が有名な存在でこれは名字の無い名前。
ところが6世紀になると例えば蘇我馬子のように「の」が登場するようになりますが、これは「蘇我一族の馬子」という意味に。この一族の名前を実名の前に付けるようになった経緯については歴史ミステリーで詳しく分かっていないものの、恐らく中国文化圏からの影響ではないかと森岡先生の推測。
このように蘇我(の)○○、物部(の)○○のような「どこどこの一族のだれだれ」という言い方はこの頃既にルールとして広く使われていたようで、さらに飛鳥時代後半から平安時代にかけては天皇中心の政治体制になった事で様々な一族が登場するようになって、ここで生まれたのが天皇から与えられる「姓」。
一番最初に与えられたのは藤原(の)鎌足で、元々は中臣鎌足という名前だったのが669年に天智天皇がその功績を称えて藤原という姓を与えて藤原鎌足に改称。
それ以降は一族が同じ藤原姓を名乗る事で姓は一族を統一するシンボルのような存在に。
スポンサーリンクそして過去の「どこどこの一族のだれだれ」という言い方にならう形で姓と名の間に「の」を付ける習慣が継続されるようになったのではと森岡先生の見解。
その後は元明天皇が橘の姓を与え、淳和天皇が平の姓を与え、嵯峨天皇が源の姓を与えていってそれぞれの姓が広まっていく事に。
つまり源頼朝の源は名字ではなく天皇から与えられた姓だったので源一族のという意味で「の」が付けられるように。
ところが姓を与えられた一族が繫栄していくと同じ姓が大量に生まれてしまうという問題が起こって朝廷にいる人々がほぼ藤原さん状態に。これだと区別がつかないという事で藤原以外の呼び名を自ら考え出して名乗るようになっていき、これが名字。
つまり天皇から与えられたのが姓、自分で作ったものが名字。
当時名字の付け方は大きく分けて2通りあって「役職」「地名」がその例。
例えば伊勢という国の長官の役職・伊勢守(いせのかみ)の「伊」と藤原の「藤」を合体させて新たに「伊藤」という名字を作ったり、源・平・藤原・橘などの姓を持っていた人たちが自らが治める土地の名前を名字として名乗るようなって「相模国三浦郡」の地名から「三浦」だったり。
この時代は姓の呼び方の名残りで名字にも「の」を付ける人たちがいたものの、姓は天皇から与えられた公的なもので名字は日常使いの私的なものという区別から次第に名字に「の」を付けないルールが浸透。
これと照らし合わせると織田信長や武田信玄といった戦国武将たちの名前は遡れば地名が由来になっていて、織田信長は祖先が現在の福井県にある織田荘(おだのしょう)という場所に住んでいたので織田と名乗るように。
ちなみに織田信長の名前は正式には織田上総介(かずさのすけ)平(たいらの)信長というのが正式なもので、織田=地名、上総介=上総の国の次官という役職名、平=天皇から与えられた姓、信長=親が名付けた実名。
スポンサーリンクそして武田信玄になると武田大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)源(みなもとの)晴信(はるのぶ)入道(にゅうどう)信玄というのが正式で上杉謙信は上杉弾正少弼藤原(ふじわらの)輝虎入道謙信とこちらも姓が途中に登場。
つまり源は姓で織田は名字なので「の」のルールが異なるというのが答え。
そして明治時代に入ると1871年に戸籍法という法律が出来るとすべての国民が家族単位で名前の前に付く名字を登録するように国が決定。
この時、農民や町民などはそもそも名字を持っていない人も多かったのでこれに合わせて新しい名字を考え出す人がいたり、それまで姓や名字を持っていた人も新しい名字を登録して良かったために全く新しい名字も多く誕生。
ちなみに豊臣秀吉の豊臣は天皇から与えられた姓なので本来であれば「の」がつく所ですが、この時代には既に「の」を入れない名字・名前で呼ぶほうが一般に広まっていたので「の」が付けずに呼んでいたという補足で2問目は以上。
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